大垣山岳協会

45年ぶり 追憶の伊吹山地獄谷 2020.10.06

伊吹山

伊吹山 地獄谷 1377.3m 丹生統司

 伊吹地獄谷は滋賀県米原市上平寺集落東を流れる「祖父谷」(川戸谷林道)を遡った源流の伊吹山南面の谷である。地獄谷の名称は会の先輩達がそう呼称していたので50年以上前からそれを踏襲している。ネットなどでは近年山頂直下の崩壊地を「阿弥陀崩れ」と呼んでいるようだ。それはいいネーミングと思っている。私たちは浮石だらけの上部崩壊地とかガラガラの岩場とかモロモロの岩場などと呼んでいたがいい表現が思いつかなかった。

 関ケ原に近い伊吹地獄谷は若い頃によく通った。休日にクライミングのパートナーがいないときは大概ここを訪れていた。下山は表道か上平寺越えを使用したが山頂に行かないときは谷をそのまま下降した。弥高尾根は当時使用していなかった。

  • 日程:2020年10月6日(火)晴れ
  • 参加者:丹生統、佐藤大
  • 行程:上平寺駐車場8:15-二俣9:35-二段滝下11:00-山頂14:00~14:50-弥高山16:15-上平寺駐車場17:15

 前夜ダイ君から電話があり「明日休暇が取れたので何処かへ行きませんか」と誘いの電話。年金暮らしで暇を持て余していることをよくご存じである。急なことで、何処の山にしようか直ぐには浮かばず一旦電話を切って思案した。彼は入会して日は浅いが金草や笹ヶ峰での沢登りを見れば成長著しい。クライミングもソバズルの指導を受けて伸び盛りである。翌日7日(水)は恵那地方の三森山に行く予定なので明日は近場にしたいが「う~ん」何処にしよう。伊吹山の地獄谷なら我が家から近いが一ヶ所難場の空滝があって今の私の実力では難しい。ただ成長著しいダイ君なら越えるだろう。ダイ君がダメなら老いたとはいえ挑戦してみよう。ダメなら引き返せばいいか。

 実は60才で山登りに復帰した時から会の若い方を地獄谷へ案内したかったのであるが30年も山から遠ざかっていたので自信がなく行きそびれていた。今日は若い伸び盛りの若者とのペアなら登れるような気持になっていた。

 45年ぶりに訪れた「祖父谷」は大岩がゴロゴロ転がっており昔日の面影は全くなかった。駐車地から此処まで1時間強を要しており川戸林道も荒れ廃道状態で歩き辛かった。

 弥高尾根上部に至る左俣と別れていよいよ右股の地獄谷に入った。やはり大石がまだゴロゴロしている。前方に小滝が見える。

 やさしい小滝が連続する。谷芯は水が流れているが周りの岩は乾いており階段状で手掛かりの多い岩を快適に登る。その昔の記憶が定かでないがとにかく谷を詰める。

 次々に現れる大岩と空滝にウキウキする。南面で明るく暖かく地獄谷の呼称が不自然に感じる。岳友18号によれば昭和47年11月に女性3名を含む8名を案内している。彼女たちは岩登りをしていなかったがそれでも此処を登っている。若かったのだ。

 大岩のチョックストーン横を登るダイくん。谷底の横幅がブルドーザーで削られたように赤土が見えている崩壊して落下していく大岩が削り取ったのだろう。

 いよいよ核心部下段の空滝に着いた。此処で小休してアンザイレンするようになってポカに気付いた。ハーケンを車に忘れていた。一度登攀用具の点検を出発前にしていたのだがまた車のトランクにしまったと思われる。この頃忘れ物が多くて情けない。

 下部岩壁は優しかったはずだが老いた身にはそれでもザイルが必要だった。核心部は上部の8mほどの空滝である。中ほどにハーケンが一本打てれば安全が確保出来るが私のポカで忘れてしまった。昔の残置があってもボロボロで使い物にはならないだろう。それでもダイ君は果敢に挑戦し登りきった。経験の浅い彼であったが素晴らしい気力とバランスだ。

 私といえばザイルをピンと張っていただいたのであるが中間付近でザイルを掴んでしまった。情けなくてこの老いぼれと肉体のせいにして責めた。

 中間付近に10㎜ほどの金属棒が打たれていたが落石で下にへし曲がって用をなしていなかった。当時は無かったのでその後誰かが打って登ったのだろう。ダイ君の頑張りで核心部は突破できた。これから上部は浮石に注意さえすれば問題ないはずと楽観していた。

 昔日のイメージはあの核心部を抜ければ頂上直下の脆い岸壁帯までガラ場を歩いただけと記憶していたが空滝が次々に現れた。記憶が全く当てにならない。

 ダイ君いわく「会の岩場訓練に最高ですよ」確かにそうだ、昭和47年に女性3名を案内したのはそれだろう。三点支持や高度感への慣れなどゲレンデに向いている。難場に1本ピンを打てば安全が確保出来るのでお薦めである。但し一旦落石が起きると怖い所である。

 行けども、行けども山頂は遠い。4時間で行けると豪語したがもうその時間は過ぎていた。青い空に向かって階段を登っているような気分だが体力の方が心配となって来た。一歩進んで二歩下がるイメージのガラ場はまだ現れない。

ナメ床の乾いた岩を登る、こんなの記憶がない。ガラ場とザラ場のイメージしかなかったが、

 やっと現れたガラ場とザラ場、ここのイメージは鮮明に記憶に残っていた。足元が崩れて歩き辛く息を切らせて登った。上部岩壁帯が見える、あれを突破すれば山頂である。

 上部岩壁帯は三段になっておりこれは下部岩壁である。安全を期してアンザイレンをした。下部は思ったほど岩は脆くはなかったが山頂が近くなるほど浮石は多くなった。

 浮石の多い岩場から息を切らして山頂台地に続く稜へ抜けた。斜面にトリカブトが青紫の花を秋の陽射しに晒して一際濃さを増している。琵琶湖の冷気を含んだ西風が可憐な花を揺すり傾いた太陽と共に秋を感じさせる。緊張から解き放たれ花にカメラを向けた。

 登って来た南面の景色を振り返った。ドライブウェイの南は点名・藤川905,47m、相川山790mはその南に重なっている。その又南は南宮山419mで西の麓は関ケ原である。その又々南に養老山脈、その右端に霞んで見えるのは鈴鹿の藤原岳である。いい眺めだ。

 広い伊吹の山頂台地に着いた。三角点右の台地付近である。観光客が柵の内側から異端の我々二人を見て通り過ぎた。柵の外側から鹿と同じ目線で我々も人間を見た。

 三角点で写真撮影の後、ベンチのある見晴らしのよい所に移動した。ベンチには何組かのカップルが居た。空いているベンチに腰を下ろす前にこの場にふさわしくないハーネスやヘルメットを外してザックに仕舞った。琵琶湖が眼下に見えて南に鈴鹿の山並み、その東に濃尾平野が広がっていた。北には能郷白山がありその東に?風山がピラッミドの素晴らしい山容を霞の中に浮き上がらせていた。約50分滞在し遅い昼食をいただいた。

 下山は弥高尾根にとったが無雪期に歩くのは初めてだ、草で足元が見えず上部は気を抜かず慎重に下った。

 入山時に4時間と豪語したが5時間50分も要しヘロヘロで山頂に着いた。情けないがやはり老いは隠しようがない。昭和47年11月の記録によれば3名女性を含む8人パーティーながら5時間25分で登っている。ハイキング主体の山行がほとんどだった彼女たちであるが若かった。今の老いた私よりも体力では勝っていたようだ。

 冬の地獄谷は2回登っている1度目は昭和47年2月20日(岳友18号)で単独である。当時の伊吹山はスキー場が営業出来るほど積雪が有ったのだが、その年は異常な暖冬で地獄谷の岩肌が麓から確認できたと書いている。当日は登攀中に降雪となって核心部の難場が越せず苦労している。凹角のスラブでアイゼンが旨く岩を捉えられず滑った。最後は左の壁を登りハーケンを打ちそこからから振り子トラバスし凹角上部に出て突破している。僅8mの抜け出しに2時間費やしたとあるから相当苦労した記録である。

 2度目は佐竹前理事長とである。記録を残していないが昭和50年2月と思われる。御在所岳籐内壁で岩登りと氷壁に興じていた時に意気投合し地獄谷をその夜登ろうとなった。その年は積雪も多く雪庇は関ケ原から確認できるほど大きかった。降雪が1週間ほどなくコンディションは最良でこの日を逃すとこのシーズンは登れない気がした。雪崩のリスクを少しでも回避するため夜間登攀とし川合先輩宅で夜食をご馳走になって時間調整をした。上平寺を出たのは23時頃だったろうか二俣を過ぎると雪崩の危険地帯である。一気に休まず競争で駆けるように登った。下部は特に狭く上部が見えないので緊張した。上部に行くほど傾斜は増してくる。2段の難場の核心部の滝は急な雪壁となり上部が3mほど出ていたが凍っておりアイゼンの前爪を効かせて簡単にクリアした。これを越すと谷は開けて上が見通せて少し安心出来た。上部岩壁帯は雪壁となり山頂部には4mほどの雪庇が張り出していた。正面突破は無理で稜に逃げると雪庇の一番小さい所を狙って切り崩して乗越し握手をした。二俣からは飲まず食わず一度も休まなかったので避難小屋で長めの休息をして互いの健闘を称えあった。下山は弥高尾根を途中まで下って傾斜の緩い所から地獄谷との出合に通じる谷を下った。最近弥高尾根を登っていて思うのだがヘッドランプの灯りでこんな急な谷をよく下ったと感心する。朝の5時頃登山を終えて帰宅し仮眠後に通常通りに出勤した。仕事が間に合ったかは疑問だが若かったから出来た。

 ダイ君との一日は昔日を思い出す充実した山行となった。1年に一度はこういう登山が「物差し」となって老いの確認にいいと思った。年々レベルを下げていく寂しさはあるが。

 下山の弥高尾根は林に入ると道もしっかりして歩きやすくランプを使用せずに駐車地に着いた。山頂から2時間30分だから下りはまあまあ歩けた。完

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