大垣山岳協会

私の書棚・山書紹介④

TOPICS・随想・コラム

月報「わっぱ」 2023年8月(No.501)

『狼は帰らず アルピニスト森田勝の生と死』  (著者 佐藤 稔 発行者 山と渓谷社)

NT

 昭和41年、森田の所属する緑山岳会では南米アコンカグア遠征計画があったが、参加費が都合つかず彼は隊員になれなかった。「あんな奴が行けて、なぜ俺が」と嫉妬や鬱屈が闘争心に火を点け、誰も成し得なかった谷川岳一の倉沢滝沢第三スラブ冬季初登攀に成功した。滝沢第三スラブは雪崩の巣で手出しする者はおらず、「三スラ神話」として時の人となった。

 昭和34年、入会後初の夏合宿で森田は歩荷中に泡を吹いて倒れ、「ホキ勝」のあだ名がついた。ホキとは使いものにならない、ダメということ。「おい、ホキ」と呼ぶ者もいた。「ホキ」と呼ばせないためには「岩」で腕をあげるしかないと、猛烈な勢いで山へ通った。

 仕事ではプレス工場の金型職人として、腕は一流と自負していたが、山に行くために年に7回も職場を変えた。休みの申請で理由は山というと上司は嫌な顔をした。「俺に学がないから仕事も出来ない奴が馬鹿にした」といって辞めた。

 自分の中に空いた暗い穴を見つめ、怒りをたぎらせ山へのめり込んだ。その後の森田の活躍に表立って「ホキ勝」という者はいなくなった。屏風岩青白ハングに代表される初登攀の数々、冬季アイガー北壁、エベレスト南壁、K2と続いた。デカイ山をやって有名になりたいという願望も叶えていった。

 エベレスト、K2と組織登山に抗って傷つき、その後のヒマラヤ登山から締め出されたが、結婚し子供も生まれた。仕事も充実し、同年代のクライマーと同じように、一線を退き家庭に落ち着くかに見えた。

 ある日「長谷川恒夫、アイガー北壁単独冬季世界初登攀」「三大北壁、残すはグランドジョラスのみ」のニュースを聞いた時、妻の律子は森田の恐ろしいほどのただならぬ顔を見た。ほんのちょっとの間戦うことを忘れていた男が、突如、それに気づいた。白い紙は汚れても時間の経過で薄れてゆくが、それを許せない性格だった。彼はグランドジョラスへ向かう。


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『狼は帰らず アルピニスト森田勝の生と死』  (著者 佐藤 稔 発行者 山と渓谷社)

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