大垣山岳協会

私の書棚・山書紹介③

TOPICS・随想・コラム

月報「わっぱ」 2023年5月(No.498)

『屏風岩登攀記』  (著者 石岡 繁雄 発行者 南部 廣邦)

NT

 本書は旧制八高山岳部出身の「伊藤」が先輩の石岡に屏風岩登攀を持ちかけたことに始まる。彼は軍務で行けなかったが、この時点で屏風岩は八高山岳部の岩壁となった。

 戦後、石岡は郷里の旧制中学の教師となり山岳部を創設していた。中学校山岳部ながら部員は御在所籐内壁に通い詰め、高校山岳部の技術レベルにまで達していた。

 戦前から伊藤、石岡を含め八高山岳部で屏風岩に4度挑むも敗退していた。昭和22年7月、石岡は中学生2名を連れて横尾に来た。八高山岳部は既に涸沢にて合宿中で、伊藤もハーケン40本を準備し待機していた。だが石岡は、今回は生徒と3人のみで行うと決めていた。これは屏風岩の先鞭者「伊藤」との友情の軋轢を意味し、母校山岳部への背信であった。

 今回は投げ縄の秘策を取り入れ練習をしていた。投げ縄が岩登りの慣習律に反する後ろめたさもあったが、有力な武器は手放せなかった。17歳の少年2人は岩登りの達人に成長しており彼をリードして一夜のビバークを経て最後の難関Aフェースまで到達した。

 だがAフェースは手強かった。少年2人は投げ縄を駆使して何とか突破したが石岡は越すことができなかった。既に体力を消耗し尽くし何度か宙吊りとなると壁を登れないことを悟った。俺は此処に残る。君達だけで先に帰れと言った。そして涸沢の伊藤、八高山岳部と連絡をとれ。伊藤以外に此処まで来れる者はいない。少年たちは、いきさつから救援に応じてくれないのではと思い、おいおいと泣いた。

 石岡は伊藤が救援にきてくれるということをなんの疑いもなく確信していた。軋轢がいかに強かったとしても、危機に対する「伊藤」の友情に全く影響がないということを無条件に信じた・・・・

 著者の石岡氏は、実弟を前穂高東壁においてナイロンザイルが切断する事故で亡くした。自身のナイロンザイル実験を公開し、20年を費やして国に安全基準を設定させた。

 この本は武藤嘉彦氏が御逝去の折り悔やみに訪問した際に奥様に薦められ読書、その後戴いた。武藤氏は石岡氏の遭難時の八高山岳部リーダーで、伊藤と共に救出にあたった。当会の副会長を務め、シャー・イ・アンジュマン遠征隊の隊長である。


私の書棚・山書紹介
『屏風岩登攀記』  (著者 石岡 繁雄 発行者 南部 廣邦)

ご覧のページです。

コメント