月報「わっぱ」 2022年8月(No.489)
「奥美濃の山」登山小史(3) - 戦後昭和編(1) - SK
1945年(昭和20年)年8月、第二次世界大戦の敗戦によって「戦後」が始まります。
岳人の山への想いは途切れることなく、岐阜県でも1950年(昭和25年)に岐阜県山岳連盟が設立されます。そして、西堀栄三郎がネパール政府から登山許可を取得し、今西錦司が踏査隊長を務めたマナスル(8163m)が、1956年(昭和31年)今西壽雄らによって初登頂されます。この快挙は戦後の日本人に誇りと自信を取り戻させ、空前の登山ブームが巻き起こります。そのような熱気のもと、1959年(昭和34年)7月24日大垣山岳協会が発足します。
ヒマラヤ熱に取り付かれていた当会の若人らに向け、奥美濃の山に戦前から関わりがある今西錦司が1960年の講演会で「奥美濃の山を登ることは、その精神においてヒマラヤ登山に通じるものがある」と鼓舞します。
これを受け当会では奥美濃の山に盛んに登るようになり、月報『わっぱ』や会報『岳友』14号「特集*奥美濃の山々」(1966年)が奥美濃の山の貴重な情報源として関西の岳人をはじめ会員以外にも広く読まれました。
同時期には岐阜登高会の会報『かもしか』や沖允人『奥美濃ノート』(自費出版)なども奥美濃の山を紹介しています。
そして1965年(昭和40年)、岐阜国体が開催され、県山岳連盟の活動はピークを迎えます。この高まりをさらに強固なものにするためとして、前年に初版が刊行された深田久弥著『日本百名山』を参考に、同年「百秀山選定調査委員会」が設けられ、県内の123山を候補として選定し、各山岳会に割り当てて踏査が開始されます。「奥美濃の山」をホームグラウンドとする当会も多くの山を担当することになりましたが「大部分の山については殆ど知る者もなく、登路すら見当がつかなかった」状態で、踏査には10年近くもかかりました。
(続く)
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