大垣山岳協会

私の書棚・山書紹介⑤

TOPICS・随想・コラム

月報「わっぱ」 2023年10月(No.503)

『我が山々へ』
著者 ワルテル・ボナッティ(近藤等訳) 発行所 (株)白水社

NT

 私が岩登りに夢中だった20代の頃に憧れたイタリアの登山家ワルテル・ボナッティの若き日の登攀記を紹介する。本書はアルプス三大北壁で最も困難とされるグランドジョラス北壁の登攀に始まる。1949年、19歳のボナッティは困難なウォーカー稜を完登し有名アルピニストの仲間入りを果たし1954年のイタリアK2遠征隊に最年少で選抜された。「男の全生涯を吸い取ってしまいかねない魅惑にあふれた魔法の頭文字」とK2を形容し憧れて参加した遠征であった。

 しかしK2での登山は予想していたのとあまりにも違っていた。頂上攻撃のサポート隊員としてアタックに必要な酸素ボンベ等の器具19㎏を担ぎ最終キャンプを目指した。旨くいけば山頂に立つ望みもあった。だが上部キャンプまで標高差800mあり、荷物の重みに遅々として進まず途中で暗くなった。やっと声が届く所まで来たが「そこへ酸素ボンベを置いて下れ」と声がしてテントの灯りが突然消えた。いくら叫び嘆願しても以後応答はなく、ボナッティとポーターのマディは暗闇に取り残された。彼等の懐中電灯は寒さで放電しており、下部キャンプへの下降は死を意味していた。

 この夜、二人は着の身着のまま8000mで地獄のビバークを余儀なくされ、マディは凍傷で後日手足の指を失った。彼らの担ぎ上げた酸素ボンベを使用した隊員2名はK2の初登頂に成功、サミッタ―の栄光を手にした。

 1955年、ボナッティはK2での精神的苦痛から未だ立ち直れないでいた。悪夢のような8000mの恐ろしい夜、人間不信は長く彼を苦しめ悩ました。K2のことを誰かがほのめかそうものなら、人目をはばからず涙を流すのだった。

 だが、ついにある日ボナッティは蘇生する。アルプス最後の課題とされたドリュウ南西岩稜へ単独で挑むのである。それはアルプス登攀史上で最も過酷といわれ、5晩のビバークを費やし行われたのである。


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『我が山々へ』  (著者 ワルテル・ボナッティ(近藤等訳) 発行者 (株)白水社)

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