大垣山岳協会

高木泰夫先生をしのぶ言葉 ①

TOPICS・随想・コラム

月報「わっぱ」 2015年3月(No.400)

すばらしかった事前準備と研究

 高木先生の素晴らしさを語る時、その一番は卓越したマネージメントにあった。シャー・イ・アンジュマン登山隊の武藤隊長は登頂報告の中で「私は雇われマダムに過ぎず遠征の本当の隊長は高木泰夫で遠征の実質的推進力で有った」と述べている。先生の事前の研究と周到な準備がなければ登頂成功はなかっただろう。現代と違い地図に空白地も多く情報が少ない時代、先生の情報収集能力は群を抜いていた。

 当会は「ハイキングからヒマラヤまで」を活動範囲に掲げたが、若手は川合リーダー他クライミング中心で夏冬春構わず穂高や剣岳合宿を繰り返した。クライミング技術中心をいぶかる声もあったが、先生は技術志向の登山に理解を示した。先生自身は奥美濃のヤブ山登山の魅力を会に浸透させて若手と先輩諸氏との融合に骨を折られ会の存続に寄与した。大垣山協中興の祖と言われる所以である。

 実は会では2度目のヒマラヤ登山の計画が1970年代中頃にあった。先生を隊長にガンバルゾムという未踏の山を目指した。会では冬の剣岳で岩登りが出来るほどまでに技術は向上し精鋭が育っていた。だが準備段階で他の隊に登頂されると夢は萎み計画は頓挫した。思えば会の技術の隆盛期であり山を変えても挑むべきだった。先生への恩返しができず、今思えば情熱が足りなかった。先生に同行して徳山の不動山に励谷から登った際、山頂からの下降でしくじりタンドー谷から赤谷へ下ってしまった。運よく地元の方の善意に助けられその日に帰垣できたが、先頭を歩いた私は後々までからかわれた。

 高木先生にお願いがある。先生が逝って直ぐに高見が後を追って行った。その拙速を先生特有の癇癪できつく叱って欲しい。そして、そちらで面倒を見て欲しい。

(丹生 統司)



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