月報「わっぱ」 2022年9月(No.490)
「奥美濃の山」登山小史(4) - 戦後昭和編(2) - SK
岐阜県山岳連盟の各山岳会が1965年~1975年に手分けして県内の山を踏査した成果は、1975年(昭和50年)1月より岐阜日日新聞の連載を経て、高木泰夫、酒井昭市が最終文責を務め、同年7月、ようやく岐阜県山岳連盟編著『ぎふ百山』が当初の候補123山に1山を追加する形で同新聞社から刊行されました。
ぎふ百山の踏査期間に重なる1967年~1973年には、今西錦司が「そこに山があるから私は岐阜に行くのである」として岐阜大学学長を務めます。1972年(昭和47年)に日本山岳会岐阜支部を設立し支部長となり、集中的に奥美濃の山々に登ります。高木泰夫をはじめ当会メンバーも行動を共にし、多くの影響を受けました。
当時は高度経済成長期で、徳山ダム建設計画の持ち上がった揖斐川源流部は大手製紙会社によって皆伐されつつあり、その林道がアプローチに使えたなどという実情もありました。
同時期、奥美濃の山を紹介した本としては、1971~1982年『山と高原地図 能郷白山・揖斐高原』(田辺昭雄執筆 昭文社)、1972年『秘境・奥美濃の山旅』(芝村文治著 ナカニシヤ出版)があり、1975年(昭和50年)には、高木碕男、高木泰夫ら当会会員を中心とした同人山葵会の『奥美濃』が自費出版されます。同書には今西錦司が題字と序文に加え「五〇年前の奥美濃」と題した小文を特別寄稿しています。さらに、1978年(昭和53年)には、福井の岳人白崎重雄、前川浩隆共著の『屏風山脈の旅-越美県境嶺の山と溪谷を行く―』(品川書店)が刊行されます。
奥美濃をはじめ県内の山を熟知している今西にとって『ぎふ百山』はお気に召さなかったようで、刊行に先立ち同書の山リストを見せたところ「岐阜にはまだええ山がいくつもある。こんな山が抜けているようではあかんな」と、12,3の山名を指摘されたといいます。
(続く)
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