大垣山岳協会

千回沢山登山報告 2010.08.09

千回沢山

【 個人山行 】 千回沢山 ( 1246m Ⅱ△ ) SM

 千回沢山と書いて、「せんがざわやま」と読む。そのみやびやかな奥深い響きに魅せられ、願望の的だった山(1246㍍)に登ることができた。徳山ダムの出現で陸の孤島となった門入地区から明治まで多くの家があった入谷沿いに進んだあと、登り5時間、下り4時間の長い沢歩き。険しい滝もなく、広くゆったりとした流れ。平凡な沢と山だったが、各所で人と山との関わりの重さを感じた。

  • 日程:2023年8月9日(日)
  • 参加者:SM(単独)
  • 行程:6:00門入かどにゅう→6:10入谷にゅうたに林道分岐→7:00千回沢蔵ケ谷くらがたに出合(入溪)7:20→9:30一谷いちだに出合→9:35大カツラ→1:50沢分岐(約870㍍)→12:15千回沢山12:35→2:30大カツラ→2:35一谷出合→4:30藏ヶ谷出合4:45→5:45門入
    (8日昼前にホハレ峠に車を置き、歩いて門入入り。10日午後、歩いてホハレ峠に戻り帰宅)
  • 地理院地図 2.5万図:美濃徳山

 千回沢山への登山口、門入へはダムの出現により、南側の旧坂内村境のホハレ峠を越えて入るほかなくなった。門入の旧住民である知人のSIさんから門入にある宿舎に滞在するので来ないかと誘いを受け、二つ返事で同行を決めた。

 滞在二日目の朝、濃い雲が谷間の上空を流れるのを案じながら、門入を出発した。すぐ入谷沿いの入谷林道に入る。林道はまもなく、倒木により車は通行不能。30分ほど行くと林道右手の緩斜面に立派な太いスギの木が並んでいた。ここが明治の初めに廃村となった入谷村の集落があった古家地区だ。多いときには40戸が生活していたという。住民たちの一部は門入に移住したが、その子孫も徳山ダムにより村外移転した。千回沢山のことを一番知っている人たちが消えてから久しい。

 林道終点の狭い空き地から草やぶをかき分けると沢へ降りる踏み跡が見つかった。少ないが、登山者がいることを示している。15㍍ほど下りた千回沢蔵ケ谷出合は土木工事で掘り返したように砂礫がむきだしの川原(写真①、右奧が千回沢上流)。その中を広く浅い流れが両方向に延びていた。空に晴れ間が見えだしたころ、沢靴にはきかえ入溪。すぐ、5㍍ほどの双頭の滝(写真②)が現れ、右岸を巻いた。滝といえるのは他に2本。いずれも越えるのは難しくない小滝だ。あとは浅い流れの中をジャブジャブ歩き。水温も適度で気持ちよい。ただ、距離が長い割りに高度が稼げない。一谷出合まで2時間10分かかったが、高度は150㍍しか上がっていない。こうゆるやかでは後が怖くなる。

写真① 右奧が千回沢上流
写真② 双頭の滝

 一谷出合から300㍍ほど登ると沢のすぐ右岸段丘上に、空高く立ち上がる巨木が現れた。SIさんから聞いていた大カツラだ。胸高直径は5㍍ほどもあろうか。高さは50㍍ほどか。これまでに見た樹木では最大のように思う。中央の親木を小振りの幹が何本も取り囲み融合している。多世代の複合体なのか。地上15㍍ほどで6,7本に分かれ全体として少し腰を曲げつつ明るい緑の葉を天空に広げている。森の不動明王のようだ。衆生救済を求め、大地に根ざして忿怒の決意を現しているかのようだ。SIさんによると、昔、この山域で活動していた木地師たちが祀っていた霊木で、40年ほど前には木の下に鳥居があった。その痕跡がないか、周りの草むらを探したが、何も見つからなかった。

千回沢大カツラ 南側からの全景 
千回沢大カツラ 北側から。中央下部に私のストックを置いた

 沢は次第に細くなり、斜度も増し、高度870㍍辺りで二つに分かれる。昨年秋に登った山仲間のTOさんにここで、右側の沢に進むように教わっている。水量の多い左側を選ぶとその先に長い激やぶがあり、難しくなるという。その通りに進むと1000㍍で沢の水が枯れ、やがて沢が消えて相当な急斜面。低木やネマガリダケの厚いやぶをくぐって40分、稜線に上がろうとしたら目の前に狭い空き地と三角点(写真⑤)。一瞬、目を疑ったが二等三角点の文字が見えた。

写真⑤ 三角点

 頂上の畳1枚ほどの空き地の周りは低木が立ち囲んでいた。南と西側の視界は開け、蕎麦粒山、烏帽子山、高丸が黒い山並みを見せるが、その他の方向は見えない。低木に登ってやっと、すぐ西側に不動山(1240)の頭を見ることができた。1987年秋のある登山記録によると、「頂上から北の美濃俣丸、冠山、若丸、東側の白山、能郷白山など360度眺望満点」とあった。20余年の間に樹木が伸びてしまったのだろう。温暖化により、山からの眺望は悪くなる一方だ。

 登りでは、沢分岐で一カ所間違うと、時間切れ敗退となったであろう。行程が長く、日帰りでは時間との勝負でもある。下山では付けたテープを目印に、千回沢の源流に入れば、後は迷う心配はない。ほぼ、想定の時間内に千回沢出合に戻ることができた。

 大カツラを目に出来たことは大きな喜びだったが、樹林との出合いについて言えば、平凡な林相であった。入谷から千回沢の一谷出合付近までは旧門入地区の共有林だが、その上流から山頂までは旧徳山村有林(現揖斐川町有林)だ。広大な門入共有林は50年ほど前以降、王子製紙がパルプ材として皆伐した。一方、上部の町有林では、それより前に木材業者がナラ、ブナ、カツラなどの大径木を用材として伐採して北側の塚地区へ架線で出材したという。SIさんは「千回沢筋は共有林、町有林いずれも、戦後に人の手が入っている。原生林は残っていないはずだ。わずかに残る大カツラなどの巨木はその時の切り残しだろう」と言う。大カツラ以外、特筆すべき古木、巨木に出合わなかった裏にはそうした山林の歴史があった。昨年歩いた根洞谷、一昨年不動山へ向かう際に遡行した励谷、ゴヨクラ谷では、うるわしい原生林に出合えた。それらが国有林内であったことが原生林持続の原因とは一概に言い難いが、住民との行政上の距離が遠いほど林野保護に有利に働いたのかもしれない。

 門入共有林は徳山ダム関連の公有地化事業により岐阜県管理の公有林になろうとしている。町有林は今後、人の手の入らない自然更新に任せられそうだ。千回沢山一帯の林野はこのまま推移すれば、往年の原生林に向け再生して行くだろう。ただ、公有林化が美林再生に直結すると見るのは短絡すぎる。官任せにするのではなく旧住民、市民、国民的な監視が不可欠だろう。

 千回沢山の山名由来は文献を調べてみたが、判然としなかった。無数の沢が分岐している沢の山、というのが常識的な推論だろう。「美濃徳山の地名」(水資源公団刊行)によると、千回沢に流入する沢は合計25本。多いと言えるが、これより多い沢は幾つかある。ただ、徳山では「沢」の語が付くのは千回沢くらいで、ほとんど「谷」か「洞」の語が付く。これは、住民が付けた名称ではなく、部外の行政担当者らが勝手に付けたのではないか。比較的新しい時代に付けたのではないかと思われる。SIさんは、父親が千回沢のことを千ケ谷(せんがだに)と呼んでいたように思うと述べている。(三角点名は「荒谷」)

 しかし、「せんかいさわ」を「せんがざわ」と呼んだのは、徳山住民らしい転訛の仕方だろう。やわらかで、品のある響きである。

<アプローチ>
入谷林道の路盤はしっかりしているが、各所で草やぶが覆い、車での通行は無理。10年ほど前までは千回沢出合まで車で入れた。今は車を使えないので、ホハレ峠から歩く。出合でテント泊して、翌日登頂してホハレ峠まで戻るのは時間的にきつい。合計2泊を想定したい。

<ルート図>

発信:8/15

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