【 個人山行 】 天狗山 ( 1149.1m Ⅲ等△ )揖斐川町坂内広瀬字川尻 丹生 統司
この日2月22日は天気予報で晴天が約束された日であったが前日、前々日と関ケ原は雪が舞っていた。飛騨や石徹白方面はこの降雪で深いラッセルや駐車地の心配もあって遠出を控え近場で美女と晴天の山を楽しむことにした。
- 日程:2023年2月22日(水) 晴れ
- 参加者:L.丹生統、大谷早、柴田悦 林 旬
- 行程:駐車地7:36-天狗山山頂11:44~12:26-駐車地14:42
- 地理院地図 2.5万図:美濃広瀬
横山ダム、奥いび湖で坂内へ向かうR303号と分かれR417号を進む、川尻橋からトンネルを抜けて親谷出合手前のダム湖へ下りる作業道の膨らみに駐車した。車道から中電の巡視路階段を登り急斜面のプラ階段を追う、下山時に凍結した用土が緩みスリップを心配するほど急な落ち葉に埋もれた斜面であった。
鉄塔下の凍結路を行く、今朝の冷え込みは厳しく途中の道路温度表示は-4℃であった。この付近はそれ以下と思われ落ち葉下の土や石が凍結しており滑って歩き辛かった。
鉄塔を過ぎると尾根はやがて滑りやすい落ち葉を載せた赤土の斜面の急登となった。いかにも滑りそうで帰りは心配である。やがて傾斜が落ちると道はユズリハ等の低木の中に消えた。ヤブは少しうるさい程度だったがそれもいつしか新雪の吹き溜まりに消えた。
標高800m辺りまでツボ足で我慢したが新雪は脛を越えて吹き溜まりでは膝辺りまで潜った。時々根雪まで踏み抜くことも出て来たのでワカンを着けた。
新雪が陽光を受けてキラキラとガラスやダイヤモンドをまぶしているかのように光る。その雪を踏んでブナ林の只中を進む、しんどいけれど斜面に深い足跡を残す歓びに浸る。
振り返ると背後のブナ林の切れ間に能郷白山が見えており少し離れて屏風山が三角系の秀麗な山容を際立たせていた。ラッセルを中断して景色に魅入った。
尾根には立派なブナが有り幹には熊が上り下りした爪痕が確認出来た。アングルにまごついているとカメラマンを置き去りにしてしまう。今日は当会の美女三傑がメンバー。
今年は降雪が少なく雪庇の発達も小さく既に落ちている物が多い。この雪庇はおそらく2日間の降雪で容姿を整え白化粧、復活したのだろう。
傾斜の落ちた尾根の雪上散歩は楽しい。気温も上昇して来ており早や春山気分である。風の芸術作品風紋を鑑賞歩行である。
風紋は雪紋ともいう、我々の若い時代には穂高や剱などの高山で見る物はシュカブラと言った。穂高などの物は凹凸が激しく氷化しており曲線が少なく感じた。自然の驚異は感じたが芸術は感じなかった。奥美濃低山の風紋は曲線的で芸術的でやはり風紋と呼びたい。
この日H女子には集合場所で体調が芳しくないと言われた、ところが山に入り雪に触れると水を得た魚、置いてきぼりを食ってヘトヘトで追いかける始末だった。
今日のメンバーは我が会の3女傑、膝まで潜るラッセルをものともせず追いかけが大変だった。モデルを大声で止めては撮影タイムを設けて息を整えた。
何気に振り返ると背後に絶景が広がっていた。右から御嶽山、乗鞍岳、穂高は頭部だけだが奥穂、前穂の吊り尾根が確認出来る。白山は能郷白山が邪魔をして見えなかった。
春山は晴天であっても霞んで遠望が利かない場合がある。この日は空気が澄んで穂高から中央アルプス、南アルプスまで確認出来て、しばし絶景に足を止めて魅入った。
能郷白山から離れて若丸山があり、また少し離れて冠山が、両山とも直ぐにそれと判るピラミダルな山容だ。冠のシタ谷と若丸のヒン谷を分ける坊主尾根も確認出来た。
ワカンの足裏が見えている、かなりの傾斜だが山頂へ最後の急登を逞しく先行する女傑たち。後からヘロヘロで追いかける。
山頂到着、ブナの枝に古い山名板が括られていたが文字は消えていた。三角点は深い雪の中で捜す気は起きない。北の眺望は樹木が邪魔をしたが東と南が開けていた。我が会お決まりの万歳三唱をした。
山頂斜面からダム湖を挟んで権現山、花房山、雷倉の小津三山が間近に見えて彼方に恵那山、南アルプス、中央アルプス、御嶽山、乗鞍岳と北に山並みが続いていた。
南斜面を階段状に踏みしめて休憩場所を造り昼食時間を過ごした。風もなく素手で過ごせる春のような陽気で有った。西に金糞岳の長大な北尾根が目を引いた。
北側は樹木の枝に邪魔されたが蕎麦粒山が大きく見えて左奥後ろに烏帽子山、少し離れて高丸のどっしりした山容があった。更に左に白い帯を辿ると三国岳、上谷山が有った。
40分ほどの頂上滞在は絶景を欲するままに大満足であった。このまま居座り続けたいほどの山頂であったが春の陽気が変わらぬうちに早めに下山をした。
帰りの車中から横山ダム湖(奥いび湖)と天狗山をカメラに収めた。
このレポートを作成中に野伏ヶ岳の遭難死ニュースを聞いた。この山は登山者が多く踏み跡を辿ればさほどの技術を必要とせず登れる山かもしれない。足を骨折したと救助要請はしていたようだが死に至るまでに自己でやれることは無かったのか気にかかる。基本知識や基本技術等身に付けていたのか、その全ての術を出し尽くしたのだろうかと。1mの積雪が有ればピッケルで穴や雪洞を掘りツゥェルトを被れば2日や3日命は長らえることが出来たと思うのだが。現在の若者は軽く暖かいダウンやゴアテックス等の濡れに強いヤッケを纏っているではないか、抗えたはずである。簡単に死を受け入れてはならない。完
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