月報「わっぱ」 2024年6月(No.511)
深田久彌 山の文学全集 (4)
著者 深田久彌 発行所 朝日新聞社
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ヒマラヤ黄金時代、各国の登山隊は初登頂された山には目もくれず、次なる処女峰を求めて活動していたが、世界最高峰だけは別で、その後も色々な国が挑戦していった。
第2登は1956年、イギリス隊の前年に挑戦し惜しくも初登頂を逃したスイス隊である。まず、サウス・コルを挟みエベレストの反対側にある世界第4位のローツェ(8511m)に初登頂。その後エベレストに向かい、2度にわたり頂上に達し、それぞれ1時間以上頂上で過ごしている。
1960年のインド隊は8625mまで達したが、天候不良の為退却。その年、思いがけないところから第3登のニュースが入ってくる。中国隊だ。彼等は当然自国領のチベットからノース・コル経由で登っている。ところがその報告書には疑問点や不自然な点が多く、今でもその登頂には疑問が持たれている。
1963年のアメリカ隊は空前の大規模なもので、キャラバンは総勢約千人だった。一度頂上に達した後、西稜からも取付き頂上を経由しサウス・コルまで縦走するというヒマラヤ鉄の時代の先駆けのような離れ業を成し遂げている。
深田はこのような大規模隊の他、小規模な登山隊についても記している。途中で命を落とす奇人変人もいる中で、面白いのはアール・デンマンというイギリス人である。1947年、彼は今でいう弾丸登山を信じて実行する。後にエベレストの初登頂者として国民的英雄になるシェルパのテンジンともう一人のシェルパの3人でチベットに密入国。夜を日に継いで歩き続け麓に到着。直ぐに行動に移り、ノース・コルの下に第4キャンプまで設置したが、天候悪化のため撤退を余儀なくされる。翌年も計画したが、国境の警備が厳しくなったことを理由にテンジンに断られて諦める。テンジンはせめてもの償いとしてエベレスト初登頂時にデンマンからもらった古い毛糸の帽子をかぶっていたのである。
(続く)
続 私の書棚・山書紹介④
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