大垣山岳協会

岩村歴史散策と三森山~水晶山 2020.10.07

三森山

【 個人山行 】 三森山 ( 1100.7m Ⅲ△ )、 水晶山 ( 958m △なし ) 丹生統司

  • 日程:10月7日(火)晴れ後曇り
  • 参加者:L.丹生統司、岩田嘉、大谷早、桐山美、堀 洋、
  • 行程:岩村ダム駐車地8:25-三森神神社9:20-三森山9:50-図根三角点10:35-鈴ヶ根展望台10:50-岩村ダム道分岐11:00-点名・水晶山Ⅳ等△11:10-水晶山11:35~12:20-林道12:45-岩村ダム駐車地12:55
<ルート図>

 女城主の里山を周回し登山後に岩村城跡を訪問してちょっぴり歴史に触れてみよう。夏に大桑城山に登って好評で有ったがこの夏は異常に暑かった。今回は涼しくなるのを待って恵那市岩村町の「三森山」を訪れた。

 麓から見ると三つの峰から成っている山容から「三森山」と呼ばれるようだ。今回は水晶山へ縦走して岩村ダムへ周回するコースである。その後岩村城跡に立ち寄り歴史のお勉強予定である。三森山の登山口には2体の石仏と山頂への案内道標が有った。

 山頂へは植林帯につけられた九十九折の道で手入れが行き届き広くて歩きやすい。道脇の石仏は信仰の山であったことを語る。

 いきなり舗装された林道が現れた。現在道路が造られて延長されているようだ。それを跨ぐと工事中の道路沿いの登山道から三森山と思われる山頂が見えた。

 三森神社に立ち寄ることにした。三森神社は天照大神が生まれた時の「ヘソの緒を切った時の鎌を祀った」という伝説があるという。

 足元にイワカガミの群落が尾根の登山道沿いに続いた。春の開花時期に訪れれば楽しさは倍増間違いないだろう。

 山頂へ15分ほど手前の斜面にヒメコマツ(五葉松)とコナラの合体木があった。抱擁しているような仲睦まじい姿である。我が家の妻君ともこのように仲良くしたいが山登りを続けている限り・・・現実は厳しい。

 三森山山頂で「点名・富田」の石標を囲んで記念写真。山頂の木々の間からは先日登った中央アルプスの大川入山や南端の山々が見えた。

三森山山頂からは一気に90mの急下降、木の根に足を取られぬように注意して下った。それにしてもこの山はヒメコマツの大木が多い。

 「三角点踏査」で「図根多角点」を教えられたが尾根の境界にその多角点のプラスチック標柱が点々と続いていたが1033mの高みに「図根三角点」が有った。

 登山道脇に丈の低い笹が現れて気持ちよく、いい雰囲気の尾根歩きである。現在地を確認したいが地形図に波線で記載されている上矢作側から登って来る道が一向に現れない。笹に埋もれて廃道になったようだ。

 鈴ヶ根展望台に着いた。西側が切り開かれており恵那市の方角の山並みが望まれた。この付近の山に精通しておらず山座同定をする知識がなかったのが残念だ。簡易トイレが設置してあり女性に優しい登山道である。

 三森山下の舗装道路も地形図に載っていなかったが、この道も記載されていない。岩村町と上矢作町を繋ぐ道路が造成中なのだろう。その直ぐ近くに岩村ダムへ下山する登山道があったがこれも地形図には記載がない。

 ややこしいが水晶山に続く尾根の高みに有る「点名・水晶山」960,6mⅣ等△の石柱。この高みに西の木ノ実峠から登山道が登っているのが地形図に記載されているが、笹に埋もれ廃道と化したのか確認出来なかった。

 水晶山958mに到着、ここに三角点は無くヒノキの植林に囲まれ展望は皆無であった。西に尾根を辿れば岩村城跡のある「城山」であるが途中で伐採作業が行われ通行禁止となっていた。ここで45分の昼食休憩をとった。時折岩村町の拡声器の声が風に乗って流れて来た。

 下山は一旦200mほど東に引き返し北に向きを変えて尾根を下る。その分岐には尾根が急で危険であるとの警告の看板が2ヶ所に有った。なにせ高齢者の軍団なれば脅されて緊張し慎重に下降に移った。足元の御料局の境界石に笑われるほど緊張でぎこちなかった。

 最初の600mほど緩やかであった尾根道は標高900m当たりから急傾斜で下降を始めた。しかし日頃奥美濃で鍛えた84才と80才のご両人は足取りも確かに無難に下った。

 雨が降れば確かに嫌な下りで有っただろうが降らずに助かった。谷の水音が下から聞こえ出すと林道が見えてあっという間に降りてしまった。林道を7分ほど歩くと朝の登山口に着き駐車地にそこから2分で着いた。雲が多くなって天気が怪しくなって来た。汗の浸み込んだ衣服を替えて岩村城跡へ向かった。

 岩村歴史資料館に駐車して本丸跡に向かったが標高差が約150mも有り石畳の坂道を20分も歩かされた。登山靴から靴に履き替えたのは失敗であった。しかし昔日に「もののふ」が登城した同じ坂道を歩いていると、その気分になってしんどさが少し和らいだ。

 この城は鎌倉期から明治に廃城令で解体されるまで約700年間の歴史があり日本の城史でも珍しいようである。石垣も戦国期の野面積みから打ち込み接ぎ、近代の切込み接ぎが見られ隅石は算木積みなど多様である。

 岩村城といえば戦国期の「女城主」が地元ではつとに語られ地酒の商品にもなっている。織田信長の叔母で「おつや」の方は岩村城主遠山影任の妻であったが主人が病没した。信長の五男「坊丸」を養子に向かえ城主としたが幼君に代わり「女城主」として采配を振い領国経営は旨くいっていたようだ。

 その後、武田信玄の三河侵攻が始まると東美濃の岩村城も攻められ囲まれた。信長は当時一向一揆との戦いで手一杯、岩村城に構っておれなかった。女城主「おつや」は武田勢の攻勢の中で武田の重臣秋山虎繁との婚姻と開城を引き換えに城内の兵と領民の命を守った。そして信長の子「坊丸」を武田に差し出し寝がえった。

 しかし信玄が亡くなり長篠で武田勝頼が信長に敗れると形勢は逆転した。武田は弱体し岩村城は孤立無援、今度は信長に攻められ5か月間持ちこたえたが城は陥落、秋山虎繁、おつやは長良川で逆さ磔の刑に処せられた。

 大国の狭間での舵取りの難しさ、非武装中立などという現実逃避など現代でも通用しない。時は戦国期、大国に翻弄されて生きる術に魂や操は不要である。己を捨てて家臣領民の生命を守った「女城主」は令和の現代も岩村町の誇りのようである。完

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