月報「わっぱ」 2012年3月(No.364)
【 週日山行 】 八鬼山 ( 627m △なし ) 村田 正春
- 日程:2012年2月16日(木)
- 参加者:村田正、小倉繁、清水き、竹森せ、桐山美、米山多、森範宏、大原和、加藤冨、犬飼芳、大杉す
- 行程:大垣5:57=桑名東IC=紀勢大内山IC=尾鷲市向井登山口9:34~48-九木峠11:50~11:55-三木峠12:17-さくらの森エリア12:25~13:27-八鬼山13:35-九木峠13:55-登山口15:33=大垣
- 地理院地図 2.5万図:尾鷲
林道八鬼山(やきやま)線に車を乗り入れると、まもなく左手に熊野古道八鬼山越えの登り口があった。車5,6台がおける駐車場とトイレが設置されていた。2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されてから歩く人が多くなったのか、道標なども立派に整備されている。
登山口にある「八鬼山3830m 130分」の道標を見ながら、右手に真砂川が流れる谷に沿った道を歩き始める。なだらかな道には石畳がビッシリ敷かれ、昔のままの古道の姿を保っている。
私が歩いた伊勢側の熊野古道では、馬越峠の石畳が一番多く残っていると思っていたが、この八鬼山越えの古道は、石畳でない所を探すのが難しいほどだった。道の両側のヒノキの植林の中には、握り飯のように丸みを帯びた大きな岩がたくさんあった。これらが石畳の材料となったのだろう。風化すると玉葱の皮のようにはがれる珍しい石だという。
出発から15分ほどの道脇に、行き倒れ巡礼の供養碑が立っていた。関東地方から熊野詣でにきた巡礼がこの地で亡くなったので、地元の人が供養して建てたものらしい。
熊野詣での巡礼たちに「西国一の難所」と言われた八鬼山越えは道の険しさに加え、山賊や狼が出没することもあった。行き倒れた巡礼も多く、路傍には他にも幾つか墓碑が見られた。1町(約109m)ごとに設置した町石には、旅の安全を祈り地蔵尊が刻まれている。天正年間の設置当時は、山頂まで50体があったが、現在は33体が残っているそうだ。
苔むした石畳は滑りやすい。慎重に進むと、やがて「駕籠立場」の標識があった。参勤交代の途中の紀州の殿様や巡見使たちが駕籠を止めて一休みした所で、傍らに樹齢300年というヒノキの大木がそびえていた。
そこから10分ほどで明るい林道に出た。車でここまで入ることもできるようだが、それでは、古道歩きの醍醐味は薄くなってしまう。林道横断地点から石段を登って古道に戻ると、コース最大の難関「七曲がり」の急坂。一気に登るとまもなく、蓮華石と烏帽子石が現れた後、稜線上の小さな鞍部である九木峠に着いた。峠からは道はゆるやかとなり、防火の神を祀る荒神堂と茶屋の前を過ぎてほどなく三木峠(八鬼山峠)に達した。ここが八鬼山越えの最高点で、直進する道は三木里へ下る「明治の道」である。
「さくらの森エリア」への遊歩道を進むと、左手のお握りのような岩に八鬼山の山名板がかかっていた(写真①)。植林のなかで眺望はないので、遊歩道を歩き「さくらの森エリア」でお昼休み。芝生の広場と立派な東屋と展望案内板。いささか整いすぎていたが、水平線が果てしなく広がる熊野灘と視界の左端に志摩半島の浜島辺りを望むことができた。
「春寒し 見おろす海の 果しなき」
これは「北越雪譜」の著者として知られる江戸時代の文人、鈴木牧之が頂上の茶店で詠んだ句である。
わたしたちも牧之が訪れた同じ季節に、同じ地に立ち、同じ感動を味わった。
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