【 月例山行 】 己高山 (922.5m Ⅲ等△ ) 滋賀県長浜市木之本町古橋 NT
当会7月の月例山行は滋賀県木之本町古橋の己高山で行われた。古代山岳信仰の名残を残す寺跡の遺構に触れた歴史ロマンと山登りの報告である。
- 日程:2023年7月2日(日) 晴れ
- 参加者:L.NT、SL.SK、AM、IY、TM、TS、NY、FI、MY、MK、WK
- 行程:仏供谷登山口駐車場7:19-六地蔵8:28-鶏足寺跡9:35-己高山山頂10:09~10:56-鶏足寺(旧飯福寺)13:29~49-己高庵下駐車場14:05
- 地理院地図 2.5万図:近江川合
この日は仏供谷登山口から己高山山頂を経て旧飯福寺登山口へ周回する計画である。全員での周回を確実にすることと時間短縮の為に筆者を含む3名は谷奥まで車を乗り入れてフライングでの出発である。
本隊の仲間たちは己高庵下の登山者駐車場から出発であり20分は先行したはずであったが準備に手間取り過ぎたか早くも近くで声が聞こえた。この上で抜かれて置いてきぼり・・・
「六地蔵」、中央は大日如来で地蔵ではない。近江で最古とのことだが推定製作年代が書かれたモノは付近になかった。先行する仲間は此処で休憩中だろうから追いつけると思ったが既に出立した後であった。
昨夜までの雨で湿度が高く風もなしで林の中の道は蒸し暑く汗ビショとなった。鉄塔を過ぎて樹木の丈が低くなると少し風が抜けた。立ち止まって汗を拭きつつ振り返ると木之本市街と琵琶湖が見渡せ初めての眺望に思わず声が出た。
付近に「馬止め」や「牛止め」「馬止岩」と書かれた板きれが残されていた。寺の住人たちの生活物資はここから人力で運ばれたのであろう。
道は尾根からトラバースとなって、道脇や斜面にスギやケヤキ、ブナの大木が多くなって来た。寺跡が近くなった雰囲気を感じた。
トラバース道から平地に出ると斜面からの湧水でぬかるんだ周りにクリンソウが群生していた。既に花期を終えており靴の汚れとヒルを警戒して足早に通り過ぎた。
一段高い台地に苔むした五輪塔と宝篋印塔、倒壊した石塔、おそらく鶏足寺の本堂跡だろう。735年東大寺中興の僧である行基によって開基、一旦荒廃したが799年に最澄が再興したという。古代、中世には山岳仏教の聖地であったが近世になると後ろ盾を失って廃れ本尊は山麓へ下ろされていた。昭和8年に寺は消失している。
寺跡から東へ長いトラバースを終えると急な尾根を直登した。固定されたトラロープを掴んで登るのだが昨夜までの雨で落ち葉の下の赤土は水をたっぷり含み良く滑った。
この斜面を登りきれば山頂と思われたが苦しそうな二人の荒い息遣いが聞こえて来る。こういう疲れる所では気分転換が必要だ。按配よく道脇のブナに熊の爪痕を見つけて二人の足を止め指差して気をそらす。1,2分の立ち休憩が途切れかけた気力を蘇らせた。
仲間に拍手で迎えられて15~20分遅れで山頂に着いた。広い山頂台地はブナの高木に囲まれて展望は利かない。中央奥にⅢ等三角点石柱と山名柱があった。少し離れてしめ縄を回した自然石が有って神の領域の気分がした。
今日の下界は30度を越える夏日で熱中症対策が必要とテレビで報じていたが、己高山山頂はガスに包まれブナ林を冷気を含んだ風が抜けていた。涼しくしのぎやすい山頂だった。
下山は旧飯福寺登山口を目指して南西尾根を下降した。尾根には株立ちのブナが多く昨夜までの雨で養分をたっぷりと吸収した若葉が萌黄色で綺麗だった。
新会員の初山行では必ず地形図講習を行っているが、高みや分岐など現在地を確認しやすい場所での読図が定着した。鉄塔のある休憩場所で現在地確認に余念がない仲間達。
尾根には地形図に記載のない枝道が多かった。面倒だがその度にプレート付きコンパスで下山方向を確認することが道間違いを防ぎ読図力のアップにつながる。
旧飯福寺登山口に下りたち石道寺の分岐を右折するとモミジの若葉が繁る鶏足寺(旧飯福寺)の境内となった。青々と茂る200本のモミジは見事で秋の紅葉時は見学者が多いそうだ。己高山鶏足寺は室町期に120の僧房を数え隆盛を誇ったが明治になると衰退が続き麓の別院飯福寺に本尊を下した。以後飯福寺は鶏足寺となったようだ。
遣唐使として唐に渡った最澄は帰国に際して「薬の木」として「茶の実」を持ち帰った。それを比叡山延暦寺の麓と己高山鶏足寺麓の別院周辺に播いた、それがお茶の始まりといわれているようだ。
昭和24年鶏足寺の住職が戦後の地域振興の為に亀山の土地を提供、地域の人たちによって山は開墾が始まった。さらに地域の子供たちが拾い集めた茶の実を村費で買いとる活動を始め子供名義の口座を設けた。子供貯金に刺激されて茶の実を集める活動は飛躍的に発展し亀山に己高山茶の実が播かれた。これが「亀山茶」始まりだそうで山が亀の甲羅に似ていたことから亀山と呼ばれたようだ。
「三成の三献茶」長浜城主羽柴秀吉は鷹狩の帰途、鶏足寺の別院「法華寺」に立ち寄って茶を所望した。対応した少年は1杯目は大きな器にぬるい茶をなみなみ、2杯目は少し熱い茶を茶碗に半分、3杯目は小さな茶碗に熱い茶を出した。少年の心遣いに感じいった秀吉は小姓に取り立てた、後の石田三成である。令和の今、こだかみの茶は「三成の三献茶」として販売しているようだ。
昨年の7月2日(日)当会は己高山を計画していたが己高庵下の登山者駐車場まで来たが激しい雷雨となった。10m先も見えぬほどの大きな雨粒、思わず首を竦める稲妻と轟く雷鳴、車から一歩も出られず退散した。あれから1年やっと宿題が片付いた。完
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