大垣山岳協会

高木先生 永久の別れ

TOPICS・随想・コラム

月報「わっぱ」 2015年2月(No.399)

高木先生 永久の別れ

 大垣山岳協会の会長、高木泰夫先生が1月22日に肺がんのため、死去された。85歳だった。葬儀告別式は24日午後1時から、養老町高田の清華苑で親族や山仲間、県教育界など約130人が参列して厳かに行われた。

 先生は山岳書の出版や幅広い人脈などを通じて県内登山界を導いた功労者でもあり、多くの登山関係者が会葬した。

 当協会からは40人が参列。読経が終わった後、全員が祭壇の前に出て、「星影のワルツ」と「惜別の歌」を合唱して先生への別れを惜しんだ。これは、生前先生が葬儀の際に歌ってくれと会の仲間に言い残した遺言であった。法名は浄徳院釋泰岳。

1930年1月、岐阜県穂積町(現瑞穂市)本田生まれ。1951年、県立加納高校教員(生物担当)。1986年土岐北高校長、88年大垣東高校長を努め、2000年に退職。学生時代から登山を始め教職時代には、岐阜山岳会に所属した。当時大垣山岳協会を率いていた高木碕男さんがそれを知って先生をスカウト、入会となった。1963年(昭和38年)のことだった。やがて、協会の実質的なリーダーとして活躍、2010年から会長を務めていた。

 先生が中心となり、会員仲間で結成した「同人山葵(わさび)会」が1975年に「奥美濃」という登山の記録紀行書を出版した。さらに協会として、96~98年に「美濃の山」3部作をナカニシヤ出版から刊行。

 その前書きに「かつて講演会に招いた今西錦司先生(後に岐阜大学長)から、奥美濃の山を登ることはその精神においてヒマラヤ登山に通じるものがあるとの教示を受け、私たちはこれをプリンシプルとした」とある。半世紀余の間、協会は美濃のヤブ山で探検的登山を追い求めた。その推進役が高木先生であった。

2000年11月 協会山行で (前列右)

主著
「奥美濃─ヤブ山登山のすすめ」(ナカニシヤ出版)1987年初版発行
「ヒンズークシュ・カラコルム登山探検誌」(日本ヒンズークシュ・カラコルム会議)

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