大垣山岳協会

忘却のタンポ、蘇る山嶺 2024.02.08

タンポ

【 個人山行 】 タンポ ( 1065m 一等△・点名月夜谷山 ) SM

 懐かしいと言うより、美濃の未知の奥山という新鮮な印象が残った。過去3回も登っているタンポ(1065m△Ⅰ・点名月夜谷山)に4度目の登頂を果たした。積雪は山頂部で70㎝ほど。長い林道も硬めの雪面歩きとなり、充分楽しめた。だが、過去の山行時での様子や眺望の記憶はすっかり消えていた。山頂から目に入る白雪の山嶺や濃尾平野西端の市街地の輝きに我を忘れた。記憶喪失症もよい面もあるのだ。(写真TOP・⑤=揖斐川下流部の平坦部が見える)

  • 日程:2024年2月8日(木)
  • 参加者:SM、K君、他7名(小山まで同行)
  • 行程:自宅5:00⇒名神高速・東海環状道大野神戸IC⇒東津汲・揖斐川町久瀬振興事務所広場(同行者集合)⇒6:50久瀬小津公民館駐車場(標高約200m)出発→7:15尾根取り付き→9:25小山(852m点名小山△Ⅲ)9:40→9:55林道(林道丹保線)出合→10:55林道離脱→11:20林道復帰→11:40主稜線出合→11:50タンポ山頂12:20→12:55林道出合→2:30小山への入口→4:00小津集落
  • 地理院地図2.5万図:樽見

 岐阜県揖斐川町と本巣市の境界尾根にあるタンポは変わった山名と奥の深さから隠れた魅力を持つ山だ。今回山仲間のFさんのお誘いがあり私を含め9人が参加、小津集落の民家の裏手の斜面を登り始めた。明確な登山路はなく、相当な急な斜面を登りだし、間もなく深い掘割り道が現れた。杉や桧の人工林だが、シイカシ類の広葉樹も混じる広い尾根を登る。登山者や山林作業者の歩行もほとんどないようだ。茂る樹木で外部への眺望はない。息を切らして標高約500m登ると初めて上部から降りてきた林道に出た。30㎝ほどの雪が積もり路面は見えない。

 ここで林道と分かれて北に上がる小尾根を登る。薄い踏み跡を伝い小山の山頂。三角点は探せなかったが、カシ類の木の幹に小さな山名板が付けてあった。(写真①) 記念撮影の後、私とK君がワカンを装着していると、後の7人全員はここから小津に帰るという。何人かは夕方に別の用事があるので、小山だけで返る、という話は聞いていたのだが、7人もが早退するとは…。絶好な雪山歩きを前にしてもったいなあと思いながら、二人は別れを告げて東に向かう小尾根を下りる。

写真① 小山山頂(木の幹に小さな山名板)

 サクサクと緩い尾根を下ると、すぐ主尾根上に延びる丹保林道に出た。積雪30㎝ほど。快適な硬さの雪面を進む。人工林が消えて、ブナやクヌギなどの落葉樹の冬枯れ姿の間に林道の雪面が続く。(写真②) 時折、北側の高地谷から吹き上げる冷風に震えるが、青空から降りて来る陽光にも恵まれる。林道が鋭角に屈曲する所で、近道を狙って道のない小尾根に入る。(写真③) 暗いヒノキ林から枯葉の落ちた広葉樹帯に入ると茶色の細枝の上方に青空が広がっている。雪面には枯葉など雑物はなにもない。無垢の雪面にワカンが小気味よく歩を重ねる。

写真② 落葉樹の冬枯れ姿の間の林道
写真③ 近道を狙い小尾根に入る

 すぐに林道に出るが、林道は間もなく雷倉方面に北上するので、林道を離れて谷間を登る。薄暗いヒノキ林の中を上がると、雷倉から延びる主尾根に出る。木の枝が多少うるさい尾根道に「丹保へ300m」の真新しい白い道標が立っていた。(写真④) 設置者などの説明は何もない。タンポの山頂は家屋4軒ほどの平地にあった。(写真⑤) 樹木はなく、雪原が広がるが、無雪期には草原ヤブであろう。木の枝には「丹保」ではなく「月夜谷山 ようきたなあー」と記した山名板があった。

写真④ 「丹保へ300m」の真新しい白い道標
写真⑤ タンポ(点名月夜谷山)山頂にて

 南側には揖斐川流域の平野部が白く光り、東方には小津権現山の尖峰、その北側には花房山の山すその雪姿が麗しい。(写真⑥)

写真⑥ タンポ山頂より

 下山では丹保林道をカットせず歩いた。 途中でタンポ山頂部が青い空に浮き出ている姿が印象的だった。(写真⑦) 丸っこく穏やかな可愛い姿が微笑みを誘うようだ。下部の林道のない標高差600mの尾根下りも順調に下ることが出来た。

写真⑦ 丸っこく穏やかな可愛い姿の山頂部

 タンポには1998年の3月(写真⑧=南側から見た山頂)と同10月には南側の西台山(949m)から、2010年2月末には雷倉からの1泊縦走時に登っている。26年前の写真と比べると、今山行では樹林が随分厚く高くなっている印象だ。特に山頂部東側のスギ・ヒノキの人工林の背が高くなったように思う。勿論、記憶には残っていないのだが、数少ない当時の写真との比較から類推できる。

写真⑧ タンポ山頂(南側から見た山頂) 1998年3月

 2010年2月の写真では北側に雷倉や能郷白山の雪峰がくっきり見えたが。今回はほとんど見えなかったように思う。雷倉─たんぽ山系の山林は標高の高さに比して傾斜が緩いためか、昔から林業が盛んだった。標高1000m前後の尾根にも長大な林道が古くから通じ、広大な人工林が広がる。ただ、近年外国材との価格競争に押されて出材は困難な情勢だと想像する。林道を補修することも困難となり、樹林資源は放置されたままとなる。積雪により、林道状況は目に入らなかったが、出材作業の跡には一度も目に入らなかった。小津地区は林業が盛んな地であり、1960年には戸数126戸あった。同地区の属する久瀬村は2005年に揖斐川町に合併した。そして現在の小津集落の戸数は60余戸に減ってしまった。

 小津の歴史で特筆すべきは椀・盆などの木工品を造る木地屋の地だったことだ。近江の蛭谷・君ヶ畑を根源とする木地屋が17世紀以降、全国の山地集落に進出した。小津には東側の岐礼谷から月尾谷筋に入ったという。彼らは原材料となるトチ・ナラの大木を求めて集落奥の山林に分け入った。小山やタンポの山域にも入ったのだろう。そして山中の平らな地に粗末な住み家を造り製品造りに励んだ。明治初年には29戸あった木地屋は明治中期には全員が姿を消したという。

 今山行で尾根筋を通る長い林道のごく一部を歩いたのだが、もとは彼ら木地屋たちが踏み固めた道の上にできたように思う。かれらは生活のために冬には、わっぱ(ワカン)を着けて歩き回ったのだろう。そう思うと、彼らに降りそそぐ自然の脅威が胸に響いてくる。

 木地屋の小道がもととなり林道が出来て、広大な人工林が現れた。しかし、林道は最近荒れ放題で、軽トラックが辛うじて入れる状態だと、地元の識者は言う。人工林が広大な放置林とならないように願いたいものだ。(写真⑨=下山時標高850m 付近の落葉樹林内の林道を下る) 完

写真⑨ 下山時標高850m 付近の落葉樹林内の林道を下る

<タンポの山名由来> 
 「タンポ」は大垣山岳協会編の「美濃の山」などの解説書に採用され、98年3月の山頂山名板(写真⑩)も同じ表記だった。だが、今山行での山頂山名板は「月夜谷山」に変わっていた。何故なのか。三角点名を踏襲したのだ。タンポの漢字は丹保か田保か。山頂直前の尾根筋には「丹保」の真新しい山名ポール。一方で岐阜県山岳連盟編「ぎふ百山」には「タンポは『田保』と書く。月尾谷上部は奧まで田んぼやワサビ田があるところから来たらしい」とある。「田んぼ」がなまったと見る。揖斐川町役場に聞いてみると、月尾谷の上部から山頂にかけての住所、つまり小字は「丹保」だという。小字名が山名になった。納得できる解釈だろう。一方で、地図上で月尾谷の記載がある谷は「月夜谷」とも呼ばれている。谷沿いにある旅館やキャンプ場の名称にも使われている。その方が観光的に通りがよい、という便宜上の理由から数十年まえに現れたらしい。しかし、一等三角点は明治26年(1883年)の選点である。すると、今の月尾谷は当時、月夜谷と呼ばれていたのか。尾か夜か、田か丹か。もつれて、こじれる。
写真⑩ 1998年3月の山頂山名板

<ルート図>

発信:2/13

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