【 個人山行 】 シカアソビ山 ( 点名 南烏山 1080m Ⅲ△ ) SM
岐阜県白川町黒川にあるシカアソビ山(点名南烏山 Ⅲ△ 1080m)に、蛭川峠(中津川市蛭川)から4㎞ほどの尾根歩きの末に登って来た。ほとんどヒノキ、スギの人工林の厚い樹林の中。外部周囲への見通しが効かない。薄い獣道と地籍調査のプラ杭だけが頼りで、時に小さい道間違いをした。でも樹林やササ原の美景や面白い形の巨岩芸術に見とれる時もあった。復路もほぼ同じコース。思い通りに、高峰(Ⅲ△ 962m)にも登れた。
- 日程:2023年9月3日(日)
- 参加者:SM(単独)
- 行程:自宅6:00⇒央道恵那IC⇒県道72号⇒県道408号⇒7:30蛭川峠⇒ひもみ林道駐車地7:40→7:50市境尾根取り付き→9:25・986mP→9:45尾根から遠ケ根林道出合→10:05市町界尾根復帰→12:10シカアソビ山頂12:30→遠ケ根林道出合(点名ひもみⅣ△986mを探すが見つからず)→2:45・986mP→3:20点名高峰3:45→4:30ひもみ林道出合→4:40駐車地
- 地理院地図 2.5万図:切井
シカアソビは山名である。三角点名はシカではなく烏の山である。古くは、オオカミもいた山だと、昔の人は語ったという。大垣山岳協会編の「美濃の山」第3巻で知ったこの山は憧れの山だった。先月末に遠ケ根峠か向かい難なく登頂を果たした。だが、山頂から道ない尾根を南下して蛭川方向に下りようとして、途中で方向感を失い時間を浪費してしまい行動を打ち切った。
その悔しさを払うためにも、今度は反対の蛭川峠から長い尾根筋をシカアソビまで北上する計画を立てた。うねうねと曲がる細い舗装路を進んで蛭川峠(約710m)に着いた。ここから2本の林道が北上している。西側のひもみ林道は幅の広い砂利道。60mほど進んで路側に駐車。歩き始めて約200mほど先で西側の尾根に向かってササ原の薮を漕ぐ。(写真①)薄緑のミヤコザサは胸高ほどあったが、足元が安定していてすぐに尾根の背に出る。
この尾根は中津川市と恵那市の境界線。薄い踏み跡を北上すると青いプラ杭(一辺8㎝)が出始める。(写真②)頭に国土調査、東側面に「蛭川村」(現中津川市)、西側面に「恵那市」の文字。30~40mごとにある青杭が重要な道標となる。
大半はヒノキ、わずかにスギも混じる人工林。除伐など手入れはよさそうで、歩き安いのだが、尾根筋が消えて平原状になる。点名高峰に達するには標高900mほどで西に曲がる必要があるが、踏み跡も消えて、樹林にさえぎられて先が見えず、結局素通りして進む。高峰登頂は帰路に果たそう。やや狭くなった尾根筋を進むと、再びプラ杭が現れだす。その東面には「蛭川村」(中津川市)、東側には「白川町」の文字。正しく市町境界尾根を登っていた。970m前後の高さにも関わらず薄い汗が体を包む。40年生前後の細いヒノキ林の下は薄青色のミヤコザサの原っぱ。薄い踏み跡を快調に進む。(写真③)986mPを越してすぐに下り始めて、尾根が途切れ舗装林道に出た。地図を読むと、遠ケ根峠から延びる遠ケ根林道に違いない。
林道を200mほど進んで左側のササ原に入り市町界尾根に入る。薄い踏み跡を青色の境界杭を辿って進むと、面白い形の巨岩のオブジェが点在する。3個の薄い歯のような岩の前で昼休みを頂いた。(写真④)他にもおにぎりや巨大ようかんの様な形の岩が厚いヒノキ林の下に転がる。やがて、西下側に見覚えのある巨大な倉庫廃屋を見た後、シカアソビの山頂に達した。下界は猛暑が続くが、1000mを越すだけに、さわやかな微風がそよぐ。それでも、うっすら汗を覚える。三角点の前で昼休み。(写真⑤)空を仰ぐとわずかに青空が見えたが、周囲の眺望は全くない。
山頂から往路を引き返す。ヒョロヒョロのヒノキ密集林がえんえんと続く。だが、低層に照葉樹などの雑木はほとんどなく、膝下高のササ原の間に延びる踏み跡をぐんぐん進む。やがて、林内から明るい遠ケ根林道に出た(写真⑥)。
林道のすぐ西側に市町界が枝尾根沿いに延びていた。青いプラ杭を追って薄い踏み跡を追う。この先にある4等三角点「ひもみ」に触れたい。往路では林道を素通りしている。進むこと100mほど。丘に肩まで届くササやぶが広がり、探せど三角点は見つからない。あきらめて支尾根を進んで林道に出た。でもあきらめ切れず、林道を戻って同じコースを再踏査。ササ原を探ったが功成らず、林道に出た。帰宅後にカメラのGPS軌跡を見ると、2回とも三角点の真上を通過していた。残念無念。
林道からすぐに、市町界尾根に取り付き再びヒノキ林内の尾根を登る。だだっ広い尾根の踏み跡を青プラ杭を目印に進む。杭表示の「蛭川村 白川町」が「蛭川村 恵那市」に変わり、広大な丘の上に高峰の三角点を見つけた。(写真⑦)ここも一面ヒノキ林。4.50年生の細い木のすだれに囲まれている。照葉樹などの雑木はほとんどなく、低層の草木も見えない。近くに「中野方財産区」のテープがあった。真南にある恵那市中野方地区の共有林のようだ。手入れ良好の林野だ。三角点周りには「高峰」などの山名板など一切の表示類なし。あるのは三角点表柱だけ。これは素晴らしい山への接し方だと納得した。多少は訪れる登山者も同じ思いなのだろう。
ただ、好天ながら落ちてくる陽の光はほんのわずか。背の高い密集ヒノキのせいだ。4、50年前には恐らくシカアソビやひもみ、さらに南には笠置山などの秀峰が見えていただろう。林業の大切さは理解できるが、寂しさは拭えない。ならば、育った材木を出材すればよいのだろうが、国産材の市況低迷が立ちはだかる。出材しても、跡地の植林費用も稼げないようでは、このままということになる。一方で、地球温暖化による樹木過剰生長も配だろう。登山中に巨木を見るのはうれしいものだが、暗くて見通しが効かない樹林はいただけない。
暗い高峰山頂から腰を上げて踏み跡もないササ原を東に向け小さな沢筋を3つほど越すと、踏み跡に出た。蛭川村と恵那市の表記が入る青杭がならぶ市町界尾根だった。何も見えないヒノキ林内を下ってヒモミ林道に達した。
歩いた市町界尾根筋は距離にして4㎞ほど、高低差約350m。わずかな行程だったが、幅の広い高原状の地形は印象に残る場面が多かった。東側2㎞ほどには中世からあった蛭川と白川町黒川を結ぶ街道(現県道72号)が通じている。街道脇には今でもわずかな民家が残り、街道脇には明治以降、昭和30年代まで稼働していた恵比寿鉱山と遠ケ根鉱山跡(いずれも鉄マンガン重石)があり、いすれも日夜100人ほどの人夫が働いていた。つまり街道沿いは賑やかな人の出入りがあった。
70年前に賑わった街道。そのすぐ西側の私が歩いた尾根一帯は当時どんな光景だったのか。樹木や落葉腐葉土は利用され尽くし、すっかり裸山の平原だったのだろう。つまりつるつるの里山だったのか。そんな連想をしつつ歩いたが、その形跡らしいものは見当たらなかった。土地の人に聞いて見たかったが、道中だれにも会わなかった。完
発信:9/7
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