大垣山岳協会

幻の浄蓮寺峠から水晶山周回記 2021.07.23

水晶山

 地理院地図に浄蓮寺峠の記載を見て、石川さゆりの「天城越え」の歌詞に出てくる「浄蓮の滝」思い出した。滝の近くに昔、浄蓮寺という寺があったという。やや感傷的な動機により岐阜県白川町小川から古道を経て浄蓮寺峠を訪ねた後、道のない尾根筋を経て水晶山(687m△Ⅱ)に登った。峠の石の観音様の慈悲深いほほ笑みに憧れと敬いを覚えた(写真①)。浄蓮寺がどこにあり、どんな寺だったのか。古道や峠の歴史は薄れ、存在そのものも消えつつあることを知った。

写真① 峠の石の観音様

水晶山 ( 687m Ⅱ△ ) 鈴木 正昭

  • 日程:2021年7月23日(金)
  • 参加者:単独
  • 行程:
    自宅6:20⇒国道41号⇒坂ノ東・小川集落⇒8:00小川集落最奥で駐車(岐阜県白川町坂ノ東小川)
    駐車地8:20→小川林道→廃林道→8:50古道取り付き→9:40浄蓮寺峠(約500m)→9:50作業歩道出合→11:15林道出合→巻き道踏み跡→11:30水晶山山頂部→11:40水晶山(687m△Ⅱ)12:15→12:25東尾根に入る→1:40小川谷左岸棚田跡→2:05駐車地
  • 地理院地図 2.5万図:金山

 国道41号から東に入ってすぐの山間にある小川集落から南西に小川谷沿いに古道が延びている。その先、七宗町との境に浄蓮寺峠がある。あるネット情報に昔、付近に浄蓮寺という古刹があったが、今その名残は見つかっていないとあった。俄然、探査意欲が起こり、今月12日に出かけた。だが、散々な結果となった。石の観音様がたたずむ浄蓮寺峠に着いたところで、強い雨が降り、雷雲が轟く。あきらめて駐車地に戻り、靴を脱いだところ、靴下が真っ赤に染まっていた。丸く膨れた小さなヤマビルが両足首に8つほどくっ付いていた。

 ヒル禍の傷がようやく治った。再挑戦への衝動は止められない。万全のヒル対策の上で集落の最奥部から立派な林道を歩き出した。出会った地元の老婦人は前夜、強い雨が降ったのでヒルには用心しなさい、と言われた。小川林道はすぐに小川谷沿いに別れ、古道は廃林道に重なって枝谷沿いに延びる。鬱蒼としたヒノキ人工林の中、薄暗く、低い木枝をはらいながら歩くうち、ひょいと左手甲に小さなゴミが目に入る。ヒルだった。その少し先では左手のひらにも。すぐディート液を吹き付ける。ただヒルの収穫はこの2匹だけで終わったのは幸いだった。

 古道は廃林道から分かれる。その分岐点は分かりにくい。前回山行の際につけた赤布が役立ち古道に間違いなく進んだ。ただ、人の歩いた形跡はほとんどない。崩壊地点も数か所。標高450mほどの路側に馬頭観音さまの石像が立っていた(写真②)。その上方にかつて石像をのせていた台座石が立てかけてあった。その正面に浄蓮寺の文字が薄っすら読めた。

写真② 馬頭観音さまの石像


 浄蓮寺峠の観音像は木の間から落ちる陽光を浴びて立っていた。前回訪問時、雨でぬれたお顔は寂しげであったが、今は豊かに晴れ晴れとした微笑み。じっくり拝顔してここに居る幸せを思った。

 峠から古道と分かれて北西に延びる尾根を進んだ。白川町と七宗町の境界尾根である。木枝やぶの厚い岩稜をよじ登ると、平らなヒノキ林内の尾根に細い踏み跡が通じていた。右側は民有林。左側(西側)は七宗国有林である。踏み跡は国有林の作業道らしく、その管理標識がコースの目印となるので力強い。右側のヒノキ林の中にクロマツやアカマツの大木が散在する。足元には枯れた松葉が堆積して布団のようにふんわりして心地よい(写真③)。ヒノキ林内に松葉布団。針葉樹にも落葉があるのだが、これ程大量の落葉に不思議を感じる。

写真③

 ヒノキ林はヒョロヒョロの手入れ不足林。楽しみにしていた尾根筋の林相の面白さはあまり感じなかった。左下側に広い林道の白い路床が散見される。林道を歩けば楽だろうが、変化に富む樹林歩きを続ける。途中2か所で少しのやぶ帯を経て、広い林道に出た。林道は下呂市金山と七宗町市街を結ぶ長大な菅田大柿林道の支線で一般車両は通れない。これを歩けば水晶山山頂に楽に行けるが、もちろん山道を行く。

 道標などない踏み跡を巻き気味に登ると、眼前にお城の石垣のような構築物(写真④)。その端から上に出ると驚いた。野球ができそうな砂利の広場があった。広場東端の石積みの上に2等三角点があった(写真⑤)。南側にはNHKとNTTの電波中継塔が建っていた(写真⑥=手前は大広場)。デジタル技術の急進で電波施設が不要になる時代である。撤去の運命にあるだろう。いずれにせよ、山上の広大な広場をどう利用しようとしているのか。作業用車の駐車場ならこの十分の一以下で済みそうだ。2等三角点がある立派な山の上の丸裸的な変貌に胸が締め付けられる。あの城郭のような石垣は大広場を支える役割だったのか。熱海の盛り土崩壊惨劇を思うと、妙に納得が行くようにも思う。一方、広場を造成するため、膨大な盛り土をしたのかもしれない。このまま放置して元の針広混交林に戻ることを願いたいものだ。

写真④ お城の石垣のような構築物
写真⑤ 水晶山 2等三角点
写真⑥ NHKとNTTの電波中継塔、手前は大広場

 当初予定は山頂から北の尾根(町界尾根)を進み、氏子峠(金山町と白川町小川を結ぶ)に出るコース。広場から慎重に北尾根を降り始めヒノキ林内の急斜面を順調に下る。だが、北方向に向かうはずが、いつの間にか真東方向の尾根を降りてしまった。既に山頂部から200mも降りている。正コースに戻るには遅すぎた。やむなく、氏子峠はあきらめて、東尾根を下り続け、急な尾根筋を降りる。木々の隙間から真下に小川集落の家々の屋根が見えた。東尾根への迷走の原因は方向確認の不実行以外にない。ぼんやりミス。方位確認作業を怠った。お恥ずかしい限りだ。

 浄蓮寺峠は大戦前まで、かつてから七宗町神渕に抜ける山越えの主要な地域街道であった。この道を歩いて名古屋や伊勢神宮参りにでかけた。当然、馬頭観音像に名を刻む浄蓮寺が峠近辺にあったはず。だが、その存在を示す史実は残っていないという。白川町誌にはこの街道を「小川から浄蓮寺峠を経て七宗町加淵に至り名古屋方面あるいは追分から関方面に至る」と説明する一文があるだけ。

 資料探しの末に、複数号でている冊子「ふるさと白川」に以下の記載を見つけた。

 浄蓮寺峠は明治中期まで激しい往来があった。峠の小川寄りの「猪之洞口」に、その昔あった浄蓮寺から名づけられたという。別名は麦飯(ばくはん)峠。伊勢神宮参りなどの旅から帰り、峠で今帰ったぞ、と集落に向かって合図をする。留守宅ではそれ帰ったぞと麦飯を炊き終えたころ帰宅したので名が付いた。

 また、大昔はオオカミ(山犬)が往来する人や馬を襲うこともあった命がけの難路であった、との記述もある。何百年もの間、村人たちが行き来した峠だが、その名の由来である浄蓮寺がどんな寺でどこに、いつまであったのか。資料探しの末に得た前記の「猪之洞口」という位置情報が唯一の成果だった。

 その地名がどこにあったのか。小川在住で地域情報に詳しいTNさん(71)にお聞きした。その地は小川集落最奥から1㎞余南の小川谷左岸平坦部だという。私も3回も通過している。何もない草原であった。ただ、他方で浄蓮寺は峠に小さな祠としてあったという説も地元にはあるそうだ。

 浄蓮寺峠道は実際には6,70年前まで生活道路として使われていた。TNさんも幼児期に母に連れられ、歩いて七宗町の神渕神社の祭礼に出かけた記憶がある。私は小川集落で2,3人の住人に峠のことを聞いた。実際に峠まで歩いた人はいなかった。住民各人が車を持つ時代、古道を知らなくても生活に何の支障もない。まもなく、古道の踏み跡や石の仏さまも消失しそうだ。

<ルート図>

発信:7/28

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