大垣山岳協会

創立60周年記念 リレー随想(その9)

TOPICS・随想・コラム

月報「わっぱ」 2020年2月(No.459)

大垣山協と私

副理事長 FT

 私が大垣山協に入会しましたのは、1990年(平成2年)の霊仙山の市民登山だったと思います。42歳の時でした。前年から始まった会友制度でこの年には13人の入会がありましたが、残念ながら、今残っているのは私だけになりました。

 入会した頃、先輩たちとは年齢が近かったこともあり、個人山行などにもよく誘われました。山はオールラウンドにやるべきと言われ、雪山装備、沢装備も揃え、御嶽、乗鞍、伊吹山、能郷白山などでのテント泊の雪山訓練、御在所での岩登り、奥美濃の沢登りとかにも参加してきました。40周年記念事業、県境縦走、烏帽子岳登山道開発など会の事業にも沢山参加して、いろいろな経験をさせていただきました。

 県境縦走と言えば、一緒に縦走していたFSさん、TSさんが若くして亡くなり、積極的に参加し頑張っていたKYさんは家庭の事情で会を離れていきました。Sさんも還暦前に亡くなり、本当に寂しいことでした。

 自分はと言いますと、飛越トンネルから三俣蓮華岳まで縦走していた時のことです。雨の中、黒部五郎岳の稜線を歩いていると娘から携帯に、父親が亡くなったとの連絡が入ったのです。よく携帯がつながったものですが、急遽予定を変更し、もう1泊するところを休みなく歩き通しました。通夜にこそ間に合いませんでしたが、何とか葬儀には間に合ったという経験をはじめとして、いろいろな思い出がある5年間でした。

 実は、この県境縦走で槍ヶ岳から西穂高岳までの時のことです。雨と強風の中、何とか槍ヶ岳山荘に入りましたが、私は低体温症になり乾燥室で体を温めないと危ない状態でした。それから20日後、原因不明の高熱を発したのです。平成21年10月18日のことで、この日は会の創立50周年の祝賀会だったのですが、私は市民病院で一時危篤状態でした。それから5ケ月の入院となり、その後も毎年のように入退院を繰り返すという状態が続きました。

 平成23年8月、岐阜大学病院で退院が近づいた頃、退院したらどこへ行きたいかをノートに書き留めました。山登りが11個所、観光が5個所の計16個所をあげました。

 山では大菩薩、甲武信ケ岳、八ヶ岳などの大縦走、岐阜県のⅠ等三角点17座の登頂、国内の3000m峰21座の登頂などでした。3000m峰でこの時点で残っていたのは、南アルプスの荒川岳~赤石岳、間ノ岳~農鳥岳の2コースでした。それに大笠山などでしたが、何とか目標を達成することが出来ました。

 山で登れなかったのは羊蹄山です。もう一つはTSさんの定年退職のお祝いに高見山、国見山を計画したのですが、定年を迎える前に彼が亡くなったので計画自体が無意味になってしまいました。本当に残念です。

 観光では平泉の中尊寺、病院のテレビで見たカナダの綺麗な街並み、アラスカのマッキンリー、これらも何とか行くことが出来ました。

 会では60周年記念事業の一つとして美濃地方の三角点踏査に取り組んできましたが、これも残り1地域となり、今年中には完了できる見通しです。その時は、みんなで烏帽子岳の頂上で喜びを分かち合いたいと思います。

 齢70を過ぎて体力の衰えを感じてきましたが、山登りは私のライフワークでもあります。技術、体力に応じた山登りはいくらでも出来ると思います。今現在、次の目標が決まっていませんが、またノートに計画を記して目標達成に向けて頑張っていきたいと思います。

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