大垣山岳協会

創立60周年記念 リレー随想(その9)

TOPICS・随想・コラム

月報「わっぱ」 2020年1月(No.458)

未踏の岐阜県境800キロを歩く

副会長 IS

 前回のリレー随想で堀会長から記していただいた通り、創立40周年記念事業としての能郷白山から国見峠までの県境縦走は平成10年のゴールデンウィークまでに完踏し、後は10月の伊吹山の集中登山を残すのみとなった。その間に「岐阜県境を全部歩いたらどうだろう!」という話が耳に入るようになってきた。10月に国見峠、春照、笹又の3ルートからの伊吹山集中登山を実践して、83名が伊吹山頂に集まった。その熱気に感激したことが、県境縦走の背を押すキッカケとなった。

 2年目の県境縦走は能郷白山から時計回りで全県域として、最初は油坂峠~毘沙門岳~石徹白川左岸のコースから始まった。ところが、奥美濃のヤブ漕ぎのイメージが強かったためか盛り上がりも今一つだった。別の要因として、岐阜県北西地域から富山県境の辺りは距離も伸び、情報も薄く、企画の実施には現地への偵察や情報収集といった活動が欠かせないことであった。「隗より始めよ」という諺が耳に届いた頃には3年目に入っていた。

 実行委員会で相談をして、実施方法の見直しを行った。提案があった「全体を幾つかの地域に区分して、地域毎に責任者と担当者を決め、企画には相互協力を前提として進める」という案を実行に移した。

 4年目(平成13年)になると会全体の状況が変わってきた。企画毎の参加者数が増え、メンバーへの広がりが出来、個々人が登っていなかった山への登高意欲が最高潮となった。ようやくにして会全体の企画として受け入れられてきたのだ。

 最後に長野県境が残ったが、一つ一つ仲間と協力し合って踏破していき、5年目の平成14年5月5日、焼岳~白谷山~安房峠の計画を2度目で達成し、伊吹山から時計回りで千本松原まで踏破の糸がつながった。

 同年11月3日、伊吹山六合目の上平寺道から山頂へと向かい、ドライブウェイの終点から登られた井上会長、山岸副会長、山本副会長(いずれも当時)と1343mの独標付近で合流して山頂に向かい、完全踏破の記念式典をして足掛け5年に及ぶ計画が完遂されたのである。

 この企画には会員会友を含めて参加者は133名に及び、延べ人員は企画委員を含め九百余名となっていた。以下に特に印象の深い山行を記していきたい。

原山本谷河畔~河合村(現、飛騨市河合町)・富山県利賀村間の峠
  • 平成12年5月16日~17日
  • FS

「仲間を誘ったがいずれも都合が悪く、結局は一人で出かけることになってしまった。北アルプスなんぞを歩いているのと違って、猛烈なヤブを突っ切って行くのだから不安は大きい」で書き出される区間。県境縦走の中で唯一の単独行、故FS君が果敢にトライしたコースだ。そのことに熱い思いを覚え、最初の例とした。

 彼は続ける。「ネマガリダケ・ササと低木のジャングル。荷物は肩に喰い込む。猛烈にアツイのだ。さらに雨が降り出した。事態は最悪。前途は遠い。地図とコンパスをにらめっこしながら、時には木に登って行く手をかざしたりするがはっきりしない。1510m峰の辺りまで来るとガスがかかりはじめた。時計を見ると1時半を回っている。この状況では峠までは無理と判断して、谷を下り471号線に出た」

  • 平成12年7月7日~9日
  • FS、IS、KY

「2名の参加で心強い。雨は降らなかったがガスで見通しが利かず、木登りと地図とコンパスには今回もお世話になった。無事、前回の到達点に到着。471号線に下りて3人でガッチリ握手して、このコースの達成の満足感に浸った」

境谷遡行
  • 平成13年9月23日~24日
  • KN、SY、KM

 国道156号線から入り込んだ庄川の川岸から人形山へとつながる県境稜線までの標高差710mの谷の遡行である。中心部は25m滝を中心に滝が連続しており、高度な沢登り技術が求められる最難関コースの一つである。

 この日までに2回の偵察とルート工作を行った。準備も整い天候にも恵まれ、チームワークよろしく無事達成し、固い握手で境谷遡行は終わりを告げた。

人形山・三ヶ辻山分岐~牛首峠

・平成12年6月4日~5日
・IS、KM、KY、サポート隊

 三ヶ辻山までは登る機会もあったが、その先牛首峠までの縦走は情報もなく、行き当たりバッタリのコースである。得てしてそのような山行の苦行はこれまでも数回体験している。

 牛首峠までの中間地点に位置する1631m峰までは快調に飛ばし早く着いた。同峰から牛首峠までは2㎞程なのだ。ところが、標高が1500m以下となると雪は消え猛烈なヤブに突入。2mを超えるネマガリダケと小灌木が絡み合い、おまけに枯れ枝がやたらと多く、気分の悪いことおびただしい。

 さらに1392m峰辺りからは枝尾根が多く入り込んでいるので、位置確認もあやふやになってしまう。木に登ってみるが見通しが利かず、慎重に進んでいるつもりだったが急斜面になり沢音が聞こえてきた。これは外したなと登り返して地形を確認すると、別の枝尾根に入ったことが分かった。

 進路を修正しつつ進んでいくが、いつの間にか稜線を外しそうになり、そのたびに登り返したりトラバースしたりで、ひどいヤブを潜る難行苦行が続いた。とにかく南へ進路をとっていけばそのうちに林道が見えてくるはずと思っていると、突然ポッカリと道が見えてきて無事牛首峠に到着。1631m峰から2㎞程の距離だったが、なんと6時間近くかかったのだ。

御嶽山・継母岳~上俵山
  • 平成12年12月29日~13年1月4日
  • KN、SY、IS

 1㎞以上にわたって崩落が続いている継母岳の西北尾根を無雪期に踏破することは不可能。積雪期でも岩が氷雪に覆われるこの時期しかないのである。当会では過去に2回計画が組まれたが、一回目は届かなかった。2回目はハードなラッセルと倒木に阻まれながらも登頂出来たが、県境縦走の中では最難関の一つと言われたコースである。

 今回も吹雪と豪雪と倒木に阻まれ、「精根尽き果てるアルバイトと下山の際は首まで沈む雪のラッセルは初体験だった」と佐竹理事長(当時)が報告書の中で記している。また彼は同年4月の上俵山~椹谷山の報告書の中で「今回は兵衛谷から上俵山を2時間半で登ったが、継母岳の時は2日間のアルバイトを強いられた」とその時の凄まじさを記している。

 3日間をアルバイトとルート工作に費やして、4日目にアタックに向かった。相変わらず風雪と寒気が厳しく、稜線に出ると尺ナンズ谷から吹き上げる風雪が地獄谷側に雪庇を延ばしていた。周りの情景は全く見えない。20mのルンゼ状の雪壁を登り、再び雪稜に立つ。70m程を慎重に登ってついに宿願の継母岳に登頂。固い握手を交わすが風雪強く早々に下山開始。慎重に下ってテントに帰着した後、再び固い握手を交歓した。下山も深雪のため空身でのルート工作が続き、御嶽少年自然の家まで11時間以上を費やしたハードな山行であった。

氷雪をまとうSY氏(左)とKN氏(右)
桂橋~境川遡行~笈ヶ岳 往復
  • 平成11年9月9日~12日
  • KN、IS、KM

 笈ヶ岳を源流とする境川は北に大笠山、南に仙人窟岳が聳え、その雨が集まる地形となっている。その山々からの水が岩石を運び、谷を削って出来た大きな岩壁帯は雨期には人が近づくことはできない。又、雨の後などに岩壁の大瀞帯を越えるには高巻きを繰り返すかへつって越えて行くしかない。

 今回は谷芯を行くことにしたが、幸いにして腰の辺りまでの水深で一つの中心部を越えることが出来た。左岸から流入してくるボージョ谷を過ぎるころから巨石が多くなり,ト谷を過ぎるとさらにその数を増してきた。2~3mから10m前後の滝が続き、へつったりよじ登ったりシャワークライムで乗り越しているうちに笈ヶ岳と大笠山からの谷の合流点に着き、テント場とした。

 アタックの日も苦闘は続く。豪雪により樹木は登高者に向かってきており、腕力登攀が続き足場も悪く体力の消耗が激しい。続いて岩稜帯の傾斜が強くなり、草付きの所が多くなってきた。さらに30mくらいのヤセ尾根を乗り越すとピークが眼前に姿を現した。待望の笈ヶ岳は近いぞ。喘登を続けついに山頂に。久しぶりに深い感動を覚えたのだった。

 下山の9月12日、ボージョ谷出合付近から西の空に異様な黒い雲がへばりついているのが気になった。翌日から降り出した雨は15日まで降り続き、飛騨地域に豪雨をもたらし大きな災害となった。

 翌年4月に水無山から前出の河合村・利賀村間の峠までのルートを踏破して楢峠から河合村角川へ下山した。その途中,二ツ屋谷の道路は寸断され、橋は流され、とどめは谷筋でよく見かける砂防堰堤が両岸から根こそぎ引き剥がされているという惨状を見た。その時、前年の9月にボージョ谷出合で見た西の空にへばりついていた黒い雲を思い出して、笈ヶ岳山行の日程が一日ずれていたら、と身震いが止まらなかった。

 岐阜県境縦走を振り返ると、困難なコース、苦難を強いられたルートがある一方、めったになかった楽しい山行なども思い出されます。初めた頃は「10年はかかるぞ!」と言われていましたが、5年の歳月で目標を達成できたことは会員各位の献身的なご尽力の賜物です。深く感謝申し上げます。

 現在、会では三角点踏査の企画が進められています。会員の皆様に一人でも多く参加していただき、新たな体験をしていただくことを祈念しています。                         

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