【 個人山行 】 点名・中屋峠( 733m Ⅳ△ ) SM
10日前に届かなかった岐阜県白川町の中屋峠(標高690m)に足跡を残すことができた。白川沿いの中屋地区から北側の佐見川水系の地域に抜ける峠である。かつて徒歩で人や物が行き交う大切な峠だったであろう。高規格の林道が出来て以来、人も物も通らなくなり、無用となった峠。峠に立つ石の観音様(写真①)は荒れ乱れた現世に寂しげな表情を向けているように感じた。
- 日程:2024年4月17日(水)
- 参加者:SM (単独)
- 行程:自宅6:10⇒尾張パークウェイ⇒国道41号⇒白川口⇒県道62号(白川街道)⇒中屋地区⇒洞山集落上部で駐車
駐車地8:35⇒旧道跡→9:00白北林道→9:10小さな沢筋取り付き→9:35枝尾根出合→10:15主尾根出合→10:35中屋峠(周辺の探索)11:20→主尾根東進→11:50白北林道出合(地図上のA点)→林道探索→主尾根に戻る→12:35点名中屋峠(△Ⅳ733m)→1:15中屋峠→南側道跡降下→2:00白北林道出合→2:15林道離脱旧道跡→2:25駐車地 - 地理院地図 2.5万図:神土
地理院地図に載る中屋峠に妙にひき付けられた。ウェブサイトを見ると8年前の到達記録が1件あるだけ。前回、私は東側にある嫁振(865m △Ⅲ)からこの峠を目指したが、若干の経路ミスで到達できなかった。
雨上がりの晴れた朝、洞山地区の最北にあるISさん宅を訪ねて、家人に峠への歩道を訪ねた。教えられた通り同家からすぐ上部にある簡易水道施設前の空き地に駐車。その先からやぶ斜面を上がる踏み跡を登り始める。ヒノキ人工林の下、各所で倒木がふさぐ掘割り道を進むと間もなく舗装完備の白北林道に出た。1984年に着工し1996年に全通した広域基幹林道である。このすぐ30mほど西の地点から北に向か小さな谷筋を登り始める。地理院地図の峠へ向かう破線歩道とは違うことは承知の上で、破線道の西側の尾根筋を登るコースだ。
薄暗い谷間から尾根筋を見ると、胸にぱっと輝くような光景が広がる。(写真②)落ち葉が堆積した斜面の上に明るい稜線の優し気な湾曲、細い照葉樹の若木がのびのびと立ち並ぶ。晴れ晴れとした気持ちで明るい尾根筋を快適に登る。尾根の両側は多くがヒノキ(またはスギ)の人工林だが尾根筋は照葉樹の若木が多くて明るい。小さな曲がりを一度した後、峠に向かう主尾根に合流。ここから東方に嫁振の高峰が樹間に見えた。
尾根上にはしっかりした踏み跡があり、林業関係の者らしい赤テープがうるさい程ぶら下る。下り坂となり、下方に広い広場が目に入る。中屋峠だった。(写真③=右手前はお地蔵様)家2軒分ほどの平地。一面分厚い枯葉腐葉土が広がる。周りはヒノキの人工林だが、枯れ朽ちたアカマツの大木が何本も残っている。洞山から白川街道側への降り口に石のお地蔵様が立っていた。文字は既に消えて読み取れない。右手に錫杖、左に宝玉をお持ちしているようだ。(近影:写真①)辺りを子細に調べたが、他に標示物などは一切なかった。峠から佐見側への道を200mほど降りてみた。あちこちで倒木が塞いでいた。また路面が消えている部分もあったが、通行は可能だと見た。(写真④)だが、どう考えても、この峠を挟んで中屋地区洞山と佐見・稲田を結ぶ古道は消失したと見てよいだろう。
峠から東に延びる主尾根を進む。明確な踏み跡が続く。林業関係の作業道のようだ。赤テープも多い。4等三角点中屋峠があるはずのピークに着くが見当たらないので、帰路に探すことにする。その先で前山行での覚えがある白北林道屈曲部(地図上のA点)に出た。ここから林道を300mほど東進した。路傍に黄色の小花をびっしり咲き誇る木が5本ほど並んでいた。(写真⑤)サンシュユ(ミズキ科)と見た。すぐに往路を引き返し、途中見逃した点名中屋峠を発見した。ピークに立つ高さ3mほどの岩の南側の藪の中に立っていた。(写真⑥)
中屋峠に戻り、南側の洞山方面に下る荒れた踏み跡を下る。50mほど先で谷筋から離れて左岸側斜面をトラバースし始める。幅も広く、路側を石垣で補強した所も数か所あった。(写真⑦)古い赤テープを幾つも見た。明らかに地図上の破線路とは違っているが、構わず進む。やがて下方に白北林道の舗装路が見えた。だが、林道への降り口は見つからず、やむを得ず草付きの急斜面を慎重に降りて林道に出た。その位置は朝、林道からやぶ谷に取り付いた地点より約500m上流(東側)だった。林道を歩いて、朝通った踏み跡を下り駐車地に帰った。
楽しく予定通り歩くことができたのだが、中屋峠に関するいくつもの疑問点がうるさく思考の深奥に突き刺さっている。まず、峠の歴史的な位置づけ。地理院地図にも地名として載っているから、峠を挟んで北側の佐見地区と南側の中屋地区を結ぶ重要な生活路、だから地理院地図に今でも残った、と私は考える。ただ、現在は石の地蔵様一体があるだけ。古道は今にも消えようとしている。現在では道を通る人は皆無だという。この点について、後でISさん(71)宅に聞いてみた。同家は近隣山地に16haのヒノキ山林を持っているが、ほとんど手を入れていない。材の伐出もしていない。費用が高く足が出てしまうから、という。中屋峠には行ったことはないそうだ。峠への往来は父や祖父の時代のことで、今は行く人は皆無だと言う。
峠忘却の一因は白北林道の出現だったように思う。峠から私が下りてきた古道は林道が出来たため5m以上ある林道側壁により切断された。しかも、車で佐見・稲田方面に行けるようになったからだ。峠付近の山林作業には車で地図上のA点に車で行けば、30分弱歩けば中屋峠に着く。峠越しの住民の交流は以前の別の山行で時に耳にした。婚姻関係も峠越しでできたそうだ。そのような時代から時が走り去り、人々の記憶も消え去る。さらに、国産材価の低迷により一帯の山を持つISさんらが山入りする動機も失われたのだろう。さらに、峠からの歩道も林道によって切断されてしまった。峠に行こうとしても、旧来の歩道に入ることが困難になったのだ。
あるサイクリストのブログでは白北林道のA点の峠を中屋峠と誤認していた。同じ誤解は林野庁の白北林道関係の公式文書にも同林道が中屋峠を通過していると記載している。これが本当なら、地理院地図での中屋峠の方が間違となる。
登山者は尾根や谷を歩き山頂に達する。ただ歩くだけでなく、遭遇した林野万象、深山幽谷について考え模索して独自の山岳観自然観をつくり上げる。私の思考はいつまでたっても茫洋としてまとまらない。だからこそ今度は何かをつかもうと、山野に出かける。それでよいと思っている。完
発信:4/21
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