大垣山岳協会

尾根筋に古道・古峠を求めて 2024.01.14

点名・中ノ洞

【 個人山行 】 点名・中ノ洞(409m Ⅳ△ )、点名・本洞( 554m Ⅲ△ ) SM

 岐阜県白川町坂ノ東と下呂市金山町菅田を分ける尾根には昔、古道や峠があった。その尾根筋を東へ西へと歩いた。氏子峠から東行し点名本洞で折り返し、氏子峠から、さらに西側へ約1㎞テクテク行脚。林業関係らしい杭や境界杭は各所にあったが、薄い踏み跡が途切れ途切れ。途中で2体のお地蔵様が鎮座。ここが幻の舞坂峠だろうか。しっかり歩けたが、分からないことを多く残した。時間経過は人の生きた形跡を次第に消去する。かつて教えを受けた地元の先達に聞こうとしたが、不可能となっていた。

  • 日程:2024年1月14日(日)
  • 参加者:SM(単独)
  • 行程:自宅6:00⇒国道41号⇒坂ノ東・小川集落⇒8:10氏子峠空地に駐車(約420m)→三角点名中ノ洞(△Ⅳ409m)→駐車地8:35市町境界尾根取り付き→9:40舞坂峠跡(地蔵様2体)→10:45点名本洞(△Ⅲ554m)11:10→12:35氏子峠→1:00西尾根取り付き→2:30・P679m2:50→3:30氏子峠駐車地
  • 地理院地図2.5万図:金山

 青空が広がる好天気の朝、坂ノ東小川の集落奥から鉄製ゲートを開けて氏子林道を北上する。堅固な舗装路を標高差180mほど上がり広い平地のある氏子峠に駐車。入口に「氏子林道開通記念碑」の石像(写真①)、そのすぐ横には小さな石の地蔵様。この道は古来からの金山町菅田桐洞を結ぶ歩道だったが、1988年に舗装車道に改装したのだ。地蔵様は風化著しく文字は消えていた。

写真① 「氏子林道開通記念碑」の石像

 ここから歩いて林道を100mほど戻ると道の端に点名中ノ洞の標石を見つけた。(写真②)

写真② 点名中ノ洞の標石

 駐車地に戻ってから、伐採残材の中を主稜に向かいよじ登り、尾根の背にでる。薄い踏み跡が途切れ途切れに続く。赤い地籍調査の杭に加えて、「菅田山」の文字が入ったコンクリ杭と「菅山」の小さな看板が時折現れる。(写真③)

写真③

 北の下呂・金山町側斜面は4,50年生のヒノキの人工林。各所で間伐済み。光が入るため時折、北側下方に菅田桐洞の集落が見える。さらに進むと、板取の高賀山や蕪山山系の山並みが並んでいた。(写真④)

写真④ 高賀山や蕪山山系の山並み

 一方、白川町側は落葉樹や照葉樹の雑木林ばかりで眺望はほぼない。やがて、菅田山杭や赤い地籍杭は消えて標識類は皆無となった。標高450mほどのなだらかな尾根筋を進むと、約幅1mの小さな掘割りを跨いだ。その両側に1体づつ石のお地蔵様が向き合って立っていた。西側が文政10年(1827)10月、金山の人が建立し(写真⑤)、東側は天保9(1838)年、坂ノ東小川の人が建立した(写真⑥)とある。

写真⑤ 西側 文政10年(1827)10月 金山の人が建立
写真⑥ 東側 天保9(1838)年 坂ノ東小川の人が建立

 あるブログ氏はここを「前坂峠」としているが、標識類などは全くない。私は前坂峠を示す明確な標識類がこの先にあると思い進んだ。しかし、峠を示すものは見つからなかった。 ややきつい急斜面を登りさらに緩い林内を進むと白い大きな標石がむき出し鎮座。点名本洞だった。周りには標識や杭類などなにもない。北側斜面から上がって来たヒノキ林の大木の下、飾り気のないすっきりした姿であった。(写真⑦)

写真⑦ 点名本洞

 本洞でわずかな昼休みの後、氏子峠へ足を戻す。すぐ先の530mのピークで支尾根に入りかけてすぐ気づきトラバースして正コースに戻った。

 氏子峠に着いてすぐ、お地蔵様の裏から尾根道に入り西方に向かう。低層ヤブも時にあるが、ここにも終始、菅田山の杭と地籍調査の赤い杭が目に入る。かなりの急斜面だが広葉樹の枯葉で埋まる尾根筋。コースを間違う危険はなく、汗をかきながらも快調に登れた。

 標高660mで尾根道は左に曲がる。ここにも「菅田山」の標識と杭があった。すぐにヒノキ林を囲うビニールのネットが現れ、それに沿って薮を漕ぎ進むと679mピークに達した。点石などなにもない。まばらな雑木林の間から北側に御嶽の雪峰が輝いて見えた。(写真⑧)

写真⑧

 ここから、さらに境界尾根を南下して、途中にあると聞く「ヌデ洞峠から氏子林道にでて帰還することも考えたが、やや時間 的にきつくなるので、往路を戻って峠駐車地に戻った。

 帰宅してから心残りの「前坂峠」のことを調べてみた。白川町誌には坂ノ東小川から「舞坂峠」を越えて井尻(現下呂市金山町)に通じる里道と氏子峠を越す現氏子林道沿いの里道を通り菅田に至る里道があった。江戸時代には飛騨街道(現県道58号)に通じるこの2本の道は生活物資の交流と文化流入の経路だった、とある。

 一方、明治38(1905)年に記した点名本洞の点の記には「舞坂峠より東に約10丁にして達す」とあった。峠の位置は2体の地蔵様が立つ所だったと言えよう。地理院地図を見ると、小川集落の北東部、東洞から延びる林道がある。その先に掘割り道が舞坂峠まで延びていると想像する。機会があれば現認してみたい。「前坂峠」は音のわずかな違いで古くは混在したのだろう。(maisakaとmaesaka)

 尾根筋に幾つもあった「菅田山」の杭について、下呂市林務課に尋ねた。菅田地区の菅田生産森林組合管理の山林の境界杭であった。その境界を歩いて見て、菅田側の山林はほとんどスギ、ヒノキの人工林だった。樹齢4,50年生の白い木肌が立ち並んでいた。(写真⑨氏子峠の駐車地から)

写真⑨

 各所で間伐されていて、明るい尾根が続いていた。だが、前述のように白川町側には人工林はなく、落葉樹や照葉樹などの雑木林が多かった。この違いは何を意味するのだろうか。完 (注 地図上の点線は私の想像する峠越え道)

<ルート図>

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