大垣山岳協会

関ケ原の役三成陣跡・笹尾山から相川山~明神山 2022.01.31

明神山
笠を思わせる秀麗な相川山

【 個人山行 】 相川山 ( 790m △なし )、明神山 ( 658.7m Ⅲ△ )  丹生 統司

 相川山(790m)は関ケ原町の最高峰で、中腹にある「雨乞岩」と東に尾根で繋がる「明神山」は共に戦後まで雨乞神事が行われていた。また、春日村古屋と関ケ原は小沢峠を挟んで交流が行われ御伊勢参りにもこの道が使われたと思われる。この古道を歩いた報告である。

<ルート図>

日程:2022年1月31日(月) 晴れ
参加者:丹生統、三輪唯
行程:笹尾山駐車場7:55-雨乞岩10:05-相川山11:10-明神山12:50-明神の森展望台13:15~14:15-大高下山口15:55
地理院地図 2.5万図:関ヶ原

 明神山麓の大高集落の入り口広場に1台車をデポして笹尾山石田三成陣跡駐車場に来た。雪がすっかり消えており少し寂しい。ウイークデーの古戦場は誰一人居なくこれも又寂しい。昨日の総会の帰りに俄かに今日の山行が決まったがジジイ二人でまたまた寂しい。

 三成はこの高みで床几に座りも出来ず戦況を眺めるとイライラは爆発寸前であっただろう。動かぬ毛利、小早川の裏切り、付近の者に当たり散らしたい心境だっただろう。心中穏やかでないはずだ。南中央に見えるのは南宮山でここに陣を布いた毛利勢が動いておれば260年後の明治を待たずに長州は天下が盗れていたはずだった。

 捲土重来、三成はこの尾根を再起を期して落ち延びたのだろう。この尾根は春日村古屋と関ケ原を結ぶ古道であって道跡は歩きやすかった。

 伊吹山ドライブウェイがヘアピンカーブを描く辺りからの霊仙山、御池岳、藤原岳などの鈴鹿北方の山の眺めが良かった。三成にはこの景色を眺めるゆとりはなかっただろう。

 これはドライブウェイ傍に建っていた相川山中腹の雨乞神社鳥居の礎石である。昭和50年代頃まで関ケ原町内から眺められたそうであるがドライブウェイの経営者が変わると地元の既得権も認められず、高齢化もあって御神体は麓に下ろされ鳥居も撤去されたようだ。

 古道は綺麗に残っているが凹みに倒木などが有って歩き辛く尾根の峰を歩いた。峰は雪が少なかったが時折陰で吹き溜まりが残っているとツボ足には大変だった。

 雪が途切れず続くようになってワカンを履いた。雨乞岩へは尾根から斜面をトラバースする道が有るのだが雪で全く分からない。適当なところからトラバースして雨乞岩に辿り着いた。岩が傾いているのでカメラの向きが悪いと思ったが立ち木は垂直、岩が傾きオーバーハングしているのだ。垂井町へ流れ出る「相川」の一滴はこの岩下から滲み出る。高度成長期頃まで此処で雨乞神事が行われていたようで平地が確保されていた。

 関ケ原の何処からでも見える鉄塔で、この尾根一番の展望台である。先行する三輪氏が格好良かった。

 周回する明神山が遥かに遠く下に見える。その南に濃尾平野が広がっている。南に伊勢湾が陽光を反射させ輝いていた。

 鉄塔台地から斜面を登りきると緩やかな尾根が西に向かっており、そのまま西へ行けば伊吹山へ通ずる。右は小沢峠から春日村古屋である。三成は此処で右か左か迷ったと思うが相川山を越えて伊吹山に続く稜線の春日村へ降りやすい鞍部から落ちて行ったのだろう。西へ尾根を辿ると赤テープが残されて高みに続いていた。

 点名・藤川村(Ⅳ等△781.73m)藤川村は滋賀県である。此処は岐阜・滋賀県境から200mほど岐阜側に入った地点なのに何故滋賀県の地名を点名にしたのか理解できない。所在地も関ケ原町玉、所有者も関ケ原玉地区であるのに。

 西滝ヶ洞の真新しい山名板が掲げられていた。西滝ヶ洞は此処の小字であるから間違いではない。しかし、此処より南の谷筋に水源を持って相川が関ケ原の北に瀬音を発てて流れをつくっていることを鑑みればこの山は相川山の一部である。この峰の最高所点は200m西の岐阜・滋賀県境の高み790mであり、そこが相川山と思われる。

 此処が岐阜・滋賀県境の最高所点で雨乞神事などで関ケ原町史に記載のある「相川山」であると思われる。しかし、高みの何処にも山名板らしきものは無かった。

 我が会の『美濃の山第1巻』には、この尾根を1.8㎞北進した高み点名・藤川(905.5mⅢ等△)を相川山(別称・カワト)としているが、それには無理がある。この山に水源を持つ南側の川は関ヶ原の南を流れる藤古川である。また北側水源の川は揖斐川町春日を流れる長谷川となる。905.5mの峰は所在地の滋賀側の小字である「カワト」が無難な山名であろう。従って、「相川山」は岐阜・滋賀県境の790mの峰と思われる。

 一旦鉄塔から登って来た斜面の高み迄引き返して北東に小沢峠を目指した。もしかして三成は小沢峠から坂内村を経て近江木之本古橋の三千院へ辿り着いたのかもしれない。峠から関ケ原側に林道が明神山に向かって延びていた。

 林道を歩いていたら明らかに鹿やイノシシとは違う足跡が、熊は冬眠中であるので違うと思っていたが、その内5本指が明瞭になって熊の足跡と判断した。近年の暖冬で冬眠しない熊がいると聞いていたが関ケ原にもいた。

 山の南斜面が伐採されて眺めの良い所が有った。関ケ原盆地の南に関ケ原の役で裏切り勝敗を決定づけた「小早川」が陣を布いた松尾山見えて、その後ろは幾里山からボンテン、勢州峠である。その右背後に霊仙山から谷山、ソノドである。中央霞んで御池岳と藤原岳が見えていた。

 明神山(658.7mⅢ等△)に到着、2分ほど下った所に明神神社がありお参りをした。幕藩時代関ケ原は垂井岩手の竹中領であったが明治になって関ケ原と垂井に分かれた。したがって神社も2ツ併存してある。神社下が広場になっており、そこで笛や太鼓、舞が奉納され私達と逆コースを辿り雨乞岩でも神事を行って下山したようだ。

 朝から飴玉1ケ食べただけで飲まず食わず腹ペコであった。見晴らしがよくて日当たりが良いこの場所まで食事は我慢をしていた。南が開けており名古屋まで一望出来る自慢の展望台である。南宮山の北側を新幹線の車両がミニチュアのように見えて東進していた。

  展望台から2分ほどで管理棟広場で有る。ここから相川山の眺めが良い、右奥はカワト905,5mである。東、南も開けて天気がいいと御嶽山から濃尾平野迄見渡せる。誰かが富士山が見えると言ったが私は一度も見たことがない。渡りのシーズンになると野鳥の会がこの場所を占領しており居辛くなる。

 若い時代にはヒマラヤへのランニング道場であった。左足首のケガの際には山へ復帰の為のリハビリコースを提供してくれた。私は今も体調維持にこの山に通う、無雪期だと我が家から片道1時間20分のトレーニングコースである。

 此処より林道をテクテク下ったが思ったより雪が残っておりワカンを中々外せなかった。雪が無ければ50分ほどの帰り道が麓の大高まで1時間半ほども要した。当初はカワトまで足を延ばそうかと地形図も準備したが遅くなりそうで止めたが正解だった。完

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