【 週日山行 】 菩提山 ( 401m Ⅳ等△ )~ 明神山 ( 658.7m Ⅲ等△ ) 丹生 統司
里山歴史散策山行報告である。秀吉の軍師として名高い竹中半兵衛の居城跡・菩提山と旧幕府時代より昭和初期まで雨乞いが行われていた明神山を周回し関ケ原の役開戦の狼煙場、岡山烽火場へ下山して古戦場を眺める計画である。
- 日程:2021年9月7日(火) 曇り
- 参加者:L.丹生統、安藤正、岩田嘉、大谷早、大塚花、桐山美、高橋文、竹森せ、堀 洋、宮川祐、宮澤健
- 行程:菩提登山口8:10-菩提山8:05~20-明神山11:10-明神の森公園11:30~12:30-岡山烽火場13:40~14:00-岡山烽火場駐車地14:05
- 地理院地図 2.5万図:関ヶ原
今山行は当初9日に開催予定で有ったが天気予報が怪しくなって急遽7日に変更した。変更で参加出来なくなった方にはお詫び申し上げます。けれど気象予報官もしっかりせい。運転手以外のメンバーを菩提登山口で降車させ、車を2台関ケ原瑞竜の岡山烽火場駐車場にデポして引き返し出発した。階段を登ると白山神社の脇から山道が始まった。
照葉樹に囲まれた尾根道は整備が行き届き歩きやすい。看板の案内を見て山頂まで50分を目標に告げると「徒歩45分と書いている」早速意義あり!の声、気持ちは若いが・・・
菩提山城は半兵衛の父竹中重元がこの地の岩手氏を滅ぼし築城した山城である。東西150m南北300mの広さで標高401mの高みから濃尾平野を見下ろす絶好の位置にある。
竹中半兵衛は秀吉に天下を取らせた名軍師として名をはせたが36才の若さで病没した。子の重門は関ケ原の役で家康に従い5000石の領地を安堵されたのを機に菩提山城を廃棄して麓の岩手に陣屋を構えたと山頂の説明書きは伝えていた。
菩提山山頂台地でⅣ等三角点を確認してから西へ向かい三の曲輪を経て深い堀切を越えた。明神山へは道が無く薄い踏み跡を追う、尾根は倒木が多く赤色テープが残されていた。
明神山から東南に延びる尾根標高450m(関ケ原・垂井の境界)合流点に着くと花崗岩の鳥居が林藪の中に残されていた。関ケ原は幕藩時代岩手竹中家領に属し明神山は雨乞いが行われる聖地だった。この尾根は雨乞いの登山道で昭和の初期まで続けられていた。
藪の中で大型キノコを多数見つけた。直径15㎝を越える大きなもので幼茸はタマゴ状で白色であった。タマゴタケに似ているが赤くない。オオシロカラカサタケ、毒キノコである。
明神山は標高700mに満たない山であるが雪国の山地に多いブナの巨木も有る。近年の温暖化でめっきり降雪量は減ったが嘗て冬の関ケ原は交通の要衝と言われるほど雪が降った。
ヤマトタケルが伊吹山の荒神退治の折りに杖を突き立てたら根が生え枝が延びて「逆さ杉」になったという。推定樹齢800年の杉が近くにあるが引き返す勇気がなく止めた。
この神社の西広場で舞や鐘、笛太鼓が奉納されて雨乞神事が行われた。しかし幕末まで同藩であった岩手と関ケ原は明治に垂井と関ケ原に分かれると明神神社も分祀したようだ。現代はそれぞれの町の方角に向かって2社が併存している。人間の勝手な都合で分かれさせられ、旱魃の折りには願い事を聴かされる、神様も人間との付き合いは大変だろう。
明神神社から北に3分ほどの高みに点名・明神(Ⅲ等△658.7m)天気が良ければ樹間越しに伊吹山が見えるのであるが今日は曇の中に隠れていた。
神社前の広場に東屋が有って昼食休憩をここで、という声が有ったが最高の展望台があると言い聞かせた。丈が15㎝ほどで芝生のような笹と疎林の遊歩道を15分ほど下った。
濃尾平野を見下ろす絶好ポイントに到着した。天気が良ければ御嶽山から恵那山、名古屋市街のビル群、伊勢湾まで見通せる。今日はあいにくの曇り空だが金華山や岐阜市街までなら見通せた。
南宮山が遥か下に見えて、その麓を新幹線の車両が怪獣映画に出てくるようなミニチュアに見えて頻繁に行き交っている。歴史にもし?があるなら、三成がこの地に3000ほどの伏兵を置いて家康陣の背後を衝いたなら・・・天下人になったような気分で下界を見下ろし戴く昼飯の旨さは格別であった。
展望台から管理棟のある峠の広場に降りた。背後に双耳峰の相川山が長い裾野を南の笹尾山に延ばしていた。家康に敗れた三成はあの尾根を辿って領地へ逃げ落ちたはずだが・・・
明神山から岡山烽火場へ通じる尾根にはハイキングコースが設けられている。このコースは倒木や落ち葉、落石で荒れ放題であったが再整備されたのか歩きやすくなっていた。
ハイキングコースは中田池で古戦場の遊歩道に合流した。これより岡山烽火場までは5分ほどで案内表示に導かれる。
岡山烽火場から関ケ原を見下ろす。正面に小早川秀秋が陣を構えた松尾山、右端は山中丘陵地と天満山、南から順に大谷吉継、宇喜多秀家、小西行長が布陣した。家康に内通した小早川は松尾山を下りると徳川方の藤堂や京極と奮戦中の大谷勢の虚を衝き横から攻めた。小早川の裏切りで大谷が崩れると三成方は総崩れとなり家康は天下を手中にした。
岡山烽火場に布陣した黒田長政、竹中重門には浅からぬ縁がある。黒田長政にとって重門の父竹中半兵衛は命の恩人である。信長の存命中に荒木村重が謀反を起こし、翻意させる為に派遣された黒田官兵衛は牢に幽閉された。帰って来ない官兵衛に信長は荒木に寝返ったと判断し人質の松寿丸を殺すよう秀吉に命じた。しかし秀吉の軍師だった半兵衛は松寿丸を匿い身代わりの首を差し出した。約1年後に荒木の居城が落ちると牢で官兵衛が発見され嫌疑は晴れた。半兵衛の機転で信長は面目を保ち松寿丸(後の長政)は命を救われた。
関ケ原の役で家康に味方した竹中家は所領安堵、5000石の旗本交代寄合として幕末まで続いた。幕末期、当主の竹中重固は陸軍奉行として第一次長州征伐に赴き軍功を収めた。しかし1868年1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いに敗れ朝敵となると潮目が変わった。家臣を捨て置き徳川慶喜と共に大阪城を密かに抜け出したのは敵前逃亡である。その後、彰義隊に参画、奥州、函館五稜郭と転戦したが連戦連敗で投降した。
江戸へ逃れた徳川慶喜討伐の東征総督府の官軍先鋒隊である赤報隊が18日に幕府方岩手領に到着した。この時点で鳥羽伏見での幕府軍惨敗の報と朝敵の汚名は届いていた。高々5000石の弱小家が官軍に抗するなど出来るはずもなく陣屋を解放して恭順し大砲や小銃、軍資金を献上し十数名の若者を赤報隊に参加させた。家の存続と主君の減刑を願っての精一杯、誠意を見せる措置だった。
赤報隊の任務は官軍先鋒として偵察や官軍への民心誘引で「年貢半減令」を触れ回り支持を集めた。だが年貢半減など新政府の財政事情から出来るはずもなく東征総督府は「年貢半減令」を撤回すると赤報隊を偽官軍として近隣諸藩に捕縛命令を出した。偽官軍の汚名を着せられたまま処刑された者、捕縛軍に抵抗し討たれた者など多くの命が奪われた。岩手領から参加した者のうち4名もその犠牲となった。維新の隠された汚点である。
岡山烽火場から5分で駐車地に下り、菩提山登山口で車を回収して今日の週日山行・歴史散策山行を無事終えた。完
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