大垣山岳協会

伊吹山が見える丘でお別れ会 2020.09.27

国見岳

伊吹山が見える丘でお別れ会 令和2年9月27日

 本年7月4日に亡くなった当会の副会長故佐竹良彦氏のお別れ会を伊吹山のよく見える某所で行った。伊吹山は我が会のホームグラウンドであり北尾根に登山道を開くなど関わりの深い山である。そこは故人の山登りの原点で有った。

 臨済宗高木基楊導師の読経の後に堀会長他50名の会員と元会員が焼香をしました。当日は昨日までの厚い雲が切れて青空が覗き伊吹山は山頂部まで間近に見えた。

 世間ではコロナ禍でこのお別れ会は開催が危ぶまれたが第2波も少し落ち着きが見えており実行の運びとなって安堵した。慰霊式のあと高みで故人を偲ぶため片道1時間の登山をする計画をした。50名の会員が揃って登山をするのは2002年11月の岐阜県境踏破の伊吹山以来である。故人は当時の理事長で率先して計画を推進した一人である。歩行中はそうした昔日の思い出話や酒、食べ物の話で賑やかであった。

 奥美濃の山々が望める高みに着いた。県境縦走は伊吹山から始まりまさにこの稜線を歩いて北の能郷白山に繋げたのが始まりであった。稜線の丘は彼を偲び見送るのに格好の適地である。初秋を感じさせる風が抜けてさわやかな高みであった。

 偶然であるが今日9月27日は6年前に御嶽山の噴火災害が起きた日である。この日に佐竹副会長のお別れ会を此処で開くことは因縁めいたものを感じざるをえない。周囲のススキの原はそんな雰囲気つくりにも一役買っていた。

 ススキの原で「いつかある日」と「夕焼け雲」を全員で合唱して佐竹副会長を偲んだ。彼や私達の青春時代はアルピニズム全盛の時代であった。いつかアルプスの北壁を、ヒマラヤの高峰をと夢見て谷間にハンマーの打撃音を響かせ雪や氷にピッケルを振った。「いつかある日」は彼と青春を共に謳歌した仲間にはその日々が蘇る挽歌であった。

 この度、遺族から彼が愛用していた「二村のピッケル」が私の手元に届いた。国産だが二村のピッケルは手作りでシャフトの上方金属部に「三州猿投山麓住 善則」反対側に「佐竹 八九一」の通し番号が刻まれている。実はお棺に入れてやろうとしたが規則で出来ないと断られた。

 私のピッケル「シモン・スーパーD」はフランス製だが量産品である。それに比べて彼の遺品のピッケルは貴重なものである。今後は理事長職を継ぐ者に創立時に制作された「ハッピ」と共に「二村のピッケル」を譲渡していきたいと思う。

 彼はまた蔵書家でもあった。三輪さんのご厚意で多くの方々が貴重な書を手にされたとことでしょう。大事に読んで山登りの知識に役立てていただきと思います。私も「新日本登山史」を戴いた。この本は故高木泰夫先生も執筆に加わっていた貴重な本であり大事にしたい。

 1時間の昼食休憩は青空の下で有りながら小寒いくらいであった。日に日に秋の深まりが感じられてくるのである。元会員の3名の方々がややもすると暗くなりがちな今日の日を和やかにしてくれた。ありがたいことである。久しくお顔を見ていなかったがこういう機会を得て旧交を温めることが出来た。これも佐竹副会長の人徳のおかげである。

 よかった天候も駐車場に着く頃には伊吹山が白く煙っているようだった。この場所で早々に解散してお別れ会を閉じた。完

記 丹生統司


コメント