大垣山岳協会

人気のない尾根を越えて古刹へ・大箕山管山寺 2023.11.23

大箕山

【 個人山行 】 大箕山( 482m Ⅳ等△ )、管山寺 滋賀県長浜市余呉町坂口 NT

 管山寺へ北からお参りに行きませんかと有難いお誘い、地形図で確認すると周回可能な学習に適した尾根が有る。他人の軌跡を追わない自分達の登山をお願いして仲間を募った。

<ルート図>
  • 日程:2023年11月23日(木) 晴れ
  • 参加者:L.SM、NY、NT
  • 行程:ウッディバル余呉7:48-大箕山(点名・中ノ郷)9:38-呉枯ノ峰分岐9:57-管山寺本堂10:37-呉枯ノ峰分岐12:15-ウッディバル余呉13:30
  • 地理院地図 2.5万図:木之本

 当初25日で計画していたが当日は雨の確率が高く急遽23日に変更、参加者が3人となったが実施した。ウッディバル余呉のコテージ脇から尾根の末端に取り付いた。いきなりかなりの傾斜、SMはこれを想定して秘密武器、バイルもどきを持参して差を見せつけた。

 急斜面をブッシュを掴んで登り切るといきなり地形図に記載のない作業道が現れなんじゃこりゃ、それを跨ぐと山仕事の踏み跡も出て来た、ヤブの丈は低く案外楽に行けそうだ。

 やがて明瞭で歩きやすい尾根となって450mの峰に出た。広い高みで進行方向をコンパスで確認していると足元に割れた瓦を見つけた。周辺にも欠片が幾つか、小さな御堂か祠か何か有ったに違いない、ロマンを膨らませ付近を嗅ぎまわったが収穫は得られなかった。

 尾根に鉄塔が現れ、やがて「火の用心」のプラ板が出て来ると明瞭な道となった。尾根が広くなって人工林からナラやリョウブ、ナツツバキの落葉樹となって明るくなった。

 尾根から舗装林道に出て再び尾根に取り付き点名・中ノ郷(Ⅳ等三角点)に立ち寄った。
石柱の発見には少々手古摺った。双耳峰になっており西側の峰にあった。地形図を拡大しておけば発見はもっと容易だった。「大箕山」の山名板が掲げられていた。

 点名・中ノ郷から斜面を駆け下りて再び道路に出たのだが降り口に獣害用罠が仕掛けて有った。トップを歩いていた小生は全く気付かず偶然踏まず事なきを得たが山中に「罠仕掛け注意」は欲しい。そんなことも有ったが道路脇の見事な黄葉に思わずにっこり。

 舗装道路から再び山道へ、ここから(写真)は管山寺への遊歩道になっており地形図では実線で記載されているが、これが1m~3mの道幅に見えるかな。直ぐに駐車場へ出ると鉄塔横を通り過ぎて余呉町坂口への参道の分岐へ出た。

 管山寺への降り口には呉枯ノ峰分岐道標や大箕山国有林、管山寺周辺案内図、首のない石仏像が有った。管山寺石仏群のほとんどは首が無い、明治初年の廃仏毀釈によると思われるがその説明書きが一切ないのは不思議である。

 管山寺へ斜面の道を下りて行くと大きなブナやケヤキが目に留まった。ブナの幹には熊が上り下りした爪痕が明瞭に残されていた。

 モミジの紅葉も綺麗だがシロモジの黄色も艶やかでハッとするような見応えが有る。境内の斜面にはケヤキやブナの茶色、シロモジ、クロモジ、コシアブラ、タカノツメなど黄色に色づく落葉樹が多かった。反時計回りに先ず天満宮を目指した。

 八幡宮は鉄板葺きの屋根が一部壊れて壁の周囲は天幕で保護されていた。傷みがひどく以前来た時には無かった立ち入り禁止の看板が置かれていた。道真公はお嘆きだろう。

 朱雀池は腐葉土が堆積して年々浅くなっているようだ。手を叩くと鯉が寄って来た。カメラに収めようとしたが真鯉は絵にならず緋鯉を待ったが近寄って来ず諦めた。

 本堂へ続く石段は一際大きなケヤキの根によって持ち上げられて列が不規則で石の無くなっている所も有った。石垣は野面積みで隙間が多く青ゴケで覆われ歴史を感じさせた。

 本堂前広場のアカガシは幹が幾重にもよじれて寄木のような肌をしていた。樹高30m×幹回り10m樹齢不明だそうだ。長浜市の保残樹指定樹木の看板があった。

 階段下に花崗岩をくりぬいた水鉢が、本堂は今にも倒壊しそうで近寄れない。この本堂は元禄5年(1692年)の建立だそうで大正元年に改修保存されたようだ。鐘楼の梵鐘は刻まれた銘文から鎌倉時代の建治3年(1277年)作と伝わる。鐘楼は雨漏りが有るのかブルーシート覆われていた。梵鐘は外されて麓の坂口弘善館に展示されているようだ。

 市の説明書きによれば菅原道真は6歳から11歳までを龍頭大箕寺と称していたこの寺で過ごした。889年道真44歳の時に宇多天皇の勅使として訪れ3院49坊を建て大箕山管山寺と改名した。この大ケヤキはその時に植樹されたという。道真は886年から890年まで讃岐守に任ぜられ四国に赴任していたはずで転勤先から都と近江へ出張したのだろう。

 管山寺が隆盛を誇ったのは鎌倉時代だそうで105の僧房と70の末寺を数えたという。境内にはそれを裏付けるような僧房跡とみられる平地の数々と五輪塔など墓石の数々、だが明治以降に衰退を繰り返し無住になったという。

 下山も尾根を利用して既存の道は使用せぬ予定であったが地形図に記載のない遊歩道や林道が突然現れた。実線で記載のある道が1m未満の細い道であったりして翻弄された。それでもGPSは開かない、あくまで地形図とコンパスを駆使するから登山である。

 最後に車道へ出合う所からは既存道を使う計画で有ったが尾根を下りたいと言う。これこそ求めていた登山像である。だが直ぐに遊歩道が出現した、それを辿っていたが谷へ下りそうな気配となったので道と岐れた。尾根はやがて急斜面となってヤブもうるさくなって来た。真っ直ぐ進め辛くなって藪が薄く歩きやすい所へトラバースを始めた。すると突然目前にご馳走が枯れ木にビッシリ、山のご褒美に思わず歓喜の声をあげた。

 傾斜は落ちたが足元が悪くなって左へ、左へ追いやられ谷を跨いで尾根を末端付近まで下って来た。道が左に見え尾根末端との間は川になって道路側は3mほどの垂壁である。到底登れそうになく万事休す、と思われたが藪を透かして見れば橋が、山の神に助けられた。

 下写真は収穫した、SM家のナメコたっぷりの鍋である。NY家はどう料理したのだろうか。小生はその日は湯通しして大根おろしにポン酢で、2日目は鍋にして頂いた。

**舘山寺の首無し石仏について**

 大老を輩出する譜代筆頭の彦根藩は井伊直弼が桜田門外で暗殺されると混乱の責任を負わされ10万石の減封となり京都守護も解任された。この冷遇に幕府への不満が募っていた。鳥羽伏見の戦いで戦闘には加わらなかったが幕府を裏切り官軍へ味方した。しかし薩長は会津や桑名と同程度に彦根藩への恨みは根深かったはずだ。これを和らげるには積極的な新政府への協力と恭順で信頼を得る必要があった。

 管山寺のある伊香郡は彦根藩領で有った。参道の多くの首なし地蔵は明治新政府へ積極的に協力する姿勢を見せる必要から廃仏毀釈へ過剰に反応した結果なのであろう。

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