【 週日山行 】
高沢山 ( 354m △なし )、大仏山 ( 434m Ⅲ等△ )、本城山 ( 423m △なし ) 関市下之保
NT
当会7月の週日山行はMKリーダーの下で関市下之保の高沢観音日龍峯寺から高沢山、大仏山、本城山を周回した。梅雨末期の不安定な天候であったが11名の参加者日頃の善行よろしく天候に恵まれた報告である。
- 日程:2023年7月12日(水) 晴れ(下山後夕立)
- 参加者:LMK、AM、IY、OH、KM、TS、NT、FT、HM、HY、MY
- 行程:日龍峯寺仁王門9:-00-高沢山9:41-大仏山10:26-円空窟10:56-本城山11:27~12:16-白山神社13:07-日龍峯寺仁王門14:42
- 地理院地図 2.5万図:美濃
真言宗開祖、空海と思われる銅像を仰ぎ仁王門から入山した。金剛力士像は鎌倉期以降の製作だろうが阿形・吽形とも傷みがひどく貴重な文化財保護の必要を感じた。
鎌倉尼将軍政子寄進の本堂は応仁の乱で焼け落ちたそうでこの建物は寛文10年(1670)の建立だそうだ。清水寺の舞台を思わせる造りで美濃清水ともいわれ岐阜県最古の寺院だそうである。
この多宝塔は応仁の乱の戦火を免れて明治27年国特別建造物指定、昭和25年国重要文化財に指定されている。鎌倉時代の特徴を残す建造物だそうである。
多宝塔を過ぎて尾根に取り付いた。モミやカシ、コウヤマキ、ツバキ等の大木が多く残されており寺領の裏山の趣が有った。
高沢山山頂に着いたが山名板が有るだけで樹木に囲まれ狭く眺望は利かない。尾根を少し西へ行った所に白山や御嶽山の見晴台が有ったが梅雨空で全く見えなかった。
高沢山から西へ下り古道に出ると石仏があった。平成村ホームページによれば石仏は1町(109m)ごとに日龍峯寺まで33体建てられているようだ。これは二十九番であった。
伝承によれば江戸時代後期、口野々の庄屋が娘の夭折を悲しみ西国三十三霊場を巡礼したのを機に供養の石仏を建立したそうだ。この土橋を筆者は山城防御の為に敢えて細い人工橋にしたと思ったが巡礼の為に庄屋が鞍部を埋めた道だそうだ。
大仏山、本城山へ周回する為に見坂峠へ向かう古道と別れた。次々に現れる石仏を一体ごとにもっと観察したかったが残念だった。
起伏が少なく歩きやすい古道に慣らされていた身体は僅か80mの登りだったが汗が噴き出し首にかけたタオルを濡らした。梅雨の最中、風が抜けない林の中は蒸し暑かった。
大仏山の山頂には反射板が有って高く頑丈なフェンスで囲まれていた。此処には「点名・大仏」のⅢ等三角点石柱があるのだが遠くから眺めるしかなかった。
大仏山を過ぎた直下で休憩したがそこには「富士山大権現、立山大権現、白山大権現」と彫られた三霊山の石碑が有った。近くには石灯篭も有ったが神仏習合の名残であろうか、
大仏山から本城山側へ80mほど下った所に「円空窟」の案内板を見て覗くことにした。東に200mほどトラバースして尾根に出、そこから40m斜面を下降した所に岩窟は有った。麓の藤谷集落には円空仏が何体か残されており此の岩窟で修行されたのかも、
岩窟の近くでマムシと遭遇、写真を撮るために申し訳ないが頭を押さえた。まだら模様で胴太、尾が胴から急に細くなっているのが特徴である。赤マムシは橙色で特徴は一緒である。岩窟の守護神に手荒なことをしてしまった。
本城山への登りに掛かると堀切や切岸、土塁といった山城特有の防御施設が現れる。「後6段の標識」を見て急な切岸を数え息を切らして越えた。あと1段になって井戸跡や石垣の案内につい興味をそそられ道草となって山頂が遠かった。
山頂は岩で南が断崖だった。案内板によれば本城山423mは「小野城跡」で1535年に斎藤宗雄によって築かれ美濃で1,2を誇る規模の山城だった。同じ斎藤姓だが道三とは主家土岐氏の跡目相続で覇権を争った。山頂からは東、南、西の展望がよろしく天気が良ければ名古屋市街のビル群が見えるようだ。今日は生憎だったが西に伊吹山は確認出来た。
下山途中に「神滝」の道標を見て寄り道することにした。苔から湧水が幾筋か落ちており口で受けて飲んだ。冷たさは物足りないが神秘の趣は感じた。
藤谷集落を目指して東へツバキやカシ等常緑樹の落ち葉で埋まった斜面を下った。途中で谷水を見つけて掬って飲んだが冷たさが今一ツ、低い標高と浅い谷のせいだろうか、
谷を降りきると白山神社が有り、ここでやっと腰を下ろして休憩が出来た。それにしても山から下りたら暑かった。
藤谷集落の道沿いには豊富な谷水を利用した家庭用生簀を多く見た。清らかな水で育てた鯉やマスを食用としていたのだろうか。観賞用の緋鯉が泳いでいる生簀が有ったが長閑な風景には不釣り合いだった。何気に振り返ると大仏山が見えて写真で見るより肉眼では格好良く見えていた。
下山後に近くの道の駅へ飲み物購入で立ち寄るとポツポツ落ちて来た。買い物を済ませ出発するや雨脚が激しくなって雷鳴がとどろいた。前方や路面が見えにくいほどの降りで目を凝らし緊張して運転したが夕立がもう1時間早ければ山中で悲惨な状況となっていただろう。ついていた山行であった。メンバーの日頃の善行による高沢観音の加護であろうか。完
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