大垣山岳協会

山行雑記 高沢山と高曝山信仰と元号と静寂と 2022.07.11

高曝山

【 個人山行 】 高沢山 ( 354m )、高曝たかじゃれ山 ( 457m ) 鈴木 正昭

 関市の津保川右岸にある高沢山(354m)と高曝山(457m)に登った。前者は古代から続く観音信仰の山で、今なお健在の信仰の道を長く歩いた。一方、後者のある「平成」(へなり)地区は元号と同名となり、騒々しさを増したが、今は忘れられたような静けさ。大眺望とダイナミックな尾根歩きを楽しんだ。

  • 日程:2022年7月11日(月)
  • 参加者:鈴木正(単独)
    • 行程:自宅6:20⇒東海環状道富加関IC⇒県道58号⇒神野⇒藤谷地区集会所空地に駐車
      駐車地(岐阜県関市神野)7:50→8:50古道出合→9:10高沢山山頂→高沢古道→9:50見晴台→10:05古道離脱→10:25大仏(点名おおぼとけ・Ⅲ△434m)→10:40三権現→11:25藤谷白山神社→12:00駐車地12:20⇒県道58号⇒平成自然公園入口⇒平成谷林道最奥地で駐車
    • 駐車地(関市下之保)1:05→1:15尾根筋出合→1:40点名平洞→2:00中電鉄塔通過(馬瀬北部線57号)→2:35高曝山3:00→3:30中電鉄塔→4:10駐車地
  • 地理院地図 2.5万図:美濃

 梅雨がぶり返したがその晴れ間を狙って、登り残していた2低山に出かけた。藤谷地区から谷沿いに延びる高沢観音(日龍峯寺)への歩道を進む。すぐに車道は終わり沢沿いの踏み跡を進む。ヒノキ林の中の暗い踏み跡はどんどん薄くなる。藤谷側からの巡拝歩道は消えつつあるようだ。東側の尾根筋に上がり強引に進むとやがて幅の広い踏み跡に出て、赤い袈裟を着けたお地蔵さまが現れる。どうやら、高沢観音の境内地を外して直接高沢古道に入ったらしい。観音堂や国重文の多宝塔などを拝観したかったが、先は長いので今回は割愛を決めた。

 高沢古道から岩稜交じりの分岐歩道をわずかに進むと高沢山の山頂。看板だけが立ち眺望は効かない(写真①)。少し戻る岩稜からは北側が開けて眼前に午後に登る予定の高曝山が横たわるが、その奥の高賀山系や白山方面は雲の中。

写真① 高沢山山頂

 古道に戻り尾根道を北上する。道の左右各所に石のお地蔵様が立つ(写真②)。道脇にその説明文が記されたCD盤がぶら下がっていた。「江戸時代の後期に愛娘を亡くした口野々(美濃市)の富豪が高沢観音までの古道沿いに石仏33体を建てたもの」だそうだ。信じられないほどの亡き娘への愛情。路傍に赤い袈裟を着けた石像が現れるたびに低頭拝礼を繰り返した。高沢古道は美濃市側から高沢観音に参詣するための信仰の道。尾根筋部分の高低差は少ない。各所で左右が切り立ち土で盛ったような土橋のような地形が現れた(写真③)。ここにもCD説明板があり、「土橋がなかったら、上り下りが大変です。200年前の土木工事に感謝です」との解説文。細くて上下の激しい尾根道での苦労を考えると、安全かつ楽々と歩くことができる。道案内のCD盤には「とみの北アルプス」の名があった。

写真②
写真③

 尾根道は西に曲がり、美濃市側に降りる古道と別れる。80mほど高度を上げると、樹林に阻まれていた眺望が一気にひらけ、藤谷の田と集落が見え駐車した集会所も見えた。そのすぐ先の平らな丘に大仏の三角点があるはす。だが、山頂には中電の反射板2本が立つ。周りには背の高い鉄柵が巡らしてあり、三角点石の実見はあきらめた。登山では私有地(私有林)内通行が許されている。三角点は国土地理院管轄の公共財である。柵で囲って登山者から三角点を隔離する根拠理由はなんなのか、不可解である。

 大仏山頂から南側に少し降りた平地に三権現(富士・立山・白山)の碑があり(写真④)、ほかに小さな祠がいくつもあった。実はここから尾根を南西に進むと本城山(423m)に至る。同山山頂には岐阜県内でも有名な小野城(本城山城)があった。1538年ころ、斎藤八郎左衛門宗雄が築城し、約20年後に美濃上有地城主佐藤氏に滅ぼされたという。そこにも行きたかったが時間の都合で三権現の広場から直接南東に降りる尾根筋を下った。ヒノキの人工林内に疎らな低層樹。踏み跡はなかったが、やぶは薄く簡単に藤谷白山神社に降り立った。

写真④ 三権現(富士・立山・白山)の碑

 田んぼの中に大きな構えの住家が点在する。完全舗装のゆったりした道路を歩く。人口減少が進む農村地帯だが、どこも立派すぎる道路が目に着く。

高沢山 <ルート図>

 駐車地から県道に出て津保川沿いに北上し平成地区から「平成の森」に入る。舗装された平成谷遊歩道を車で10分ほど進むと、広い駐車場のある平成自然公園に至る。高曝山の直下にあり、当初はここから直登する案も考えたが、地図を読むと、危険個所が多いのでやめた。さらに遊歩道を西行して、細い支線に入り終点に平成山・高曝山登山口の表示があった。谷筋を上がるガレガレの登山道を上り、関市と美濃市の境界尾根に出る。ここからすぐ北に平成山(381m)があるが、パスする。照葉樹やヒノキの大木が立ち並ぶ気持ちの良い尾根だが、なぜか青い被覆の針金の柵が路側に延びている。松茸山防護用かもしれないが、自然公園の地には避けたい風景ではないか。

 岩混じりの急登、しばらくで三角点平洞に達した(写真⑤)。西側の眼前が一気に解放された。「平成山展望台」の看板説明にあるように右手前に高曝山の緑の三角錐。左奥に並ぶ南アルプスの高峰群は曇り空の彼方に隠れていた。

写真⑤ 三角点平洞

 ここから少し下って市境尾根を別れて東に登り尾根に入る。高曝山まで5つの小さな丘があるが、その半分ほどの丘では南側を巻くコースなので上下が避けられ助かる。尾根の北側は全面ヒノキの密集林で暗いが巻き道側はシイカシやサカキ、アセビ、アカマツなどの幼樹がつくる明るい緑陰の中を進む。

 家2軒分ほどの高曝山山頂はヒノキの人工林下で眺望はゼロ。大きなケルンと古びた山名板(写真⑥)。多少高度が上がったせいか、蒸し暑さが消えて涼風に恵まれた。下山は順調に駐車地に着いたが、蒸し暑さが戻り汗だく。登山口の脇の小さな沢に降り体を洗う。氷のような水の冷たさに震えた。

写真⑥ 高曝山山頂
高曝山 <ルート図>

 ふたつの山域の登山は計画の粗雑さもあり、やや端折った感があるものの、幾つかの知見を得た。一つは高沢古道での土橋様の尾根筋地形である。前述のCD盤説明を作った関市神野のKH氏にお聞きすることができた。それによると、人工的な土橋状地形は古道中に7,8か所ある。橋の下部には盛り土ようの土砂を掘った跡らしい窪地を見つけたそうだ。裏付けする史料は未発見だが、多くの作業員を雇って、道を水平にする工事をした、と推定する。つまり、高沢観音を厚く信仰する富豪が私財を投じて工事を奉納した可能性がある。一方、亡き娘の安穏を願う33地蔵を建てたのは古道の先にある美濃市の口野々地区の旧家だという。氏によれば当時の8代後の世帯が今でも現住されているそうだ。KH氏はさらに、土橋工事の主は33地蔵の設置者と同一である可能性を推測する。機会があれば、踏み込んだ調査をしてみたい、という。

 高沢観音(注)は真言宗高野派の日龍峯寺のこと。本尊が千手観音であるのでこの名がある。古くからの観音信仰の寺として近隣はもちろん大和、京都などからも信者の参拝があったようだ。高沢古道を多くの信者がチリンチリンと鈴を鳴らし地蔵様に手を合わせながら、歩きやすい土橋を渡り観音様にたどり着いた。そんな情景を想像すると、山歩きと山岳信仰の深いつながりを感じる。身体と思考を全開しつつ目標に迫る。今なお現代人をも吸引する力を感じる。

 一方、高曝山山域は歴史や信仰とは縁が薄いようだ。元号が平成と決まり、平成(へなり)地区は一気に著名となり、平成山や高曝山のふもとに自然公園が造られ大勢のハイカーが押し寄せた。それから30余年がたち静けさが随分戻った。自然公園の広い園地には1組の家族が魚とり遊びをしていただけ。もともと信仰の山ではなく、歴史遺構は皆無の山。ヒノキ林の多い個性の少ない里山である。それでも岩混じりのダイナミックな尾根筋歩きや極上の眺望地もある。登りがいのある山である。元号平成による一過的人気が去ってから本当の山域の良さが現れそうに思った。

(写真=下山時、眺望地からの高曝山。左奥に轡野権現山)

<注> 高沢観音
 伝説によると往古、飛騨から両面宿儺がやって来て高沢山の山上池に棲む龍が住民を苦しめていると聞き、退治。寺を開いたという。文明年間(1469-1487)に戦火により全山消失したが、約50年後に再興され現在に至る。鎌倉時代に創建された多宝塔は1950年に国の重文に指定された。

 発信:7/16

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