大垣山岳協会

山考雑記 山之上富士山は貧農蜂起の山だった 2023.02.05

大平山

【 個人山行 】
高木山 ( 344m △なし )、山之上富士山 ( 357m Ⅲ△ )、大平山 ( 380m △なし )
鈴木 正昭

 岐阜県美濃加茂市北部の低山3山、高木山(344m)、山之上富士山(357m)、大平山(380m)に登った。後日知ったのだが、山之上富士山の山頂は140年前、自由民権運動の貧農蜂起隊が立てこもった地だった。なのにどこにも説明板はない。大切な歴史の教えが消え去りゆく。登山はただ登るだけでなく色々な教えを得られる。それがうれしい。

  • 日程:2023年2月5日(日)
  • 参加者:鈴木正(単独)
  • 行程:
    • 自宅7:00⇒尾張パークウェイ⇒国道41号⇒⇒美濃加茂健康の森入口ゲート近くの広場に駐車
    • 駐車地8:15→9:10高木山9:30→9:50富士見橋→10:30山之上富士山(点名富士山Ⅲ△)11:20→12:05三和集落→県道80号→12:30下廿屋集落→古道→1:50主稜線→2:05点名神田(Ⅳ△357m)→2:15大平山2:40→3:35星宮神社→車に便乗⇒4:10駐車地
  • 地理院地図 2.5万図:上麻生

 昨年12月に高木山、富士山に登った際、登り残した大平山にも登ろうと出かけた。「みのかも健康の森」の入口に駐車して、園内のコースを歩き出した。岐阜県が28年ほど前に国の生活環境保全林整備事業を活用して整備公園化した。標高差約150mの岩混じりの急登斜面に立派な木造階段777段を架けてある。

 0度以下の寒い朝、板を鳴らして登ると背に汗が噴き出る高木山山頂に着き、三階建て展望台に上がると眺望は満開。北に白銀の御嶽が青空に起立している(写真①)。南側には工場から異様な白煙が立ち上っている(写真②=中央左側に立ち上がる工場排煙が見える)。可児市にある製紙工場だと、居合わせた登山者が教えてくれた。高い地に登ると、自然の美景に癒されるのだが、一方で人間の自然汚染の現実を痛感させられる。

写真① 高木山山頂から 白銀の御嶽
写真② 高木山山頂にて

 高木山山頂から[つつじの小道]コースを下り、県道を跨ぐ富士見橋を渡り富士山へ向かう。整備満点の道を登り、難なく小さな富士神社の立つ山之上富士山に到着。手を合わせて、背後にある三角点にご挨拶。

写真③ 南西側から見た山之上富士山
写真④ 山頂の富士山
写真⑤

 一休みした後、往路と反対側の尾根筋を降りる。山頂から尾根を下り三和小学校のある三和の集落までは昔から歩道があったようだ。だが、随分前に廃道となったようだ。12月に登った際、尾根を下りだしてから方向感を誤ったようで、余計な時間を経て三和に着いた。今回は目指す尾根を常に確認しながら外さず降りた。うるさい木枝の薮はあったが、迷わず、沢筋に出て集落に着いた。念願のやぶ尾根を下りきって心の荷が下りた気持ちだった。しかしこのコースにこだわったのは何故だろう。後日、図書館で閲覧した美濃加茂市史通史編の記述「美濃加茂事件」を読んでびっくり仰天した。

 明治17(1884)年7月、明治新政府への民衆反乱の一つ、美濃加茂事件(注)の蜂起農民約250人が立てこもったのがこの山之上富士山だったのだ。農民らは追討の警官隊に敗れ逮捕あるいは、裏山沿いに逃亡した、という。この「裏山沿い」は私が下りたコースに違いない。もちろん、踏み跡も人工物は何もなかった。

 それにしても不思議なのは、明治初期の農民一揆として、この事件は歴史的意味も大きいのだが、知名度は低い。山頂には事件に関する看板など一切ない。「健康の森」公園の園内にも関わらず、説明文など皆無。歴史を忘れると、同じ過ちを繰り返すのが私たちである。

 三和集落から廿屋川沿いの県道を進み、下廿屋(つづや)集落から南西に延びる歩道に入る。大平山へは明確な登山道があるものと勘違いしていた。後で知ったが、一般的な登山道はない。案内板類はいっさいない。僅かなヤブ山派の登山者は思い思いのコースで登っているらしい。

 沢沿いの歩道跡は間もなく全く消えた。小さな沢沿いから主稜線目がけて急な常緑広葉樹の幼木の林の間を直登し尾根の背に達した。尾根筋には国土地理院の地籍調査の赤や黄のテープや埋設標識がうるさいほど続いていた。これが以後、長く道の案内役となった。

 主尾根に出て10分余で点名神田に着いた。踏み跡はほとんどない。時折岩稜が現れ、スピードは出ない。大ぶりなピークに「大平山 2022」と記した金属看板が立っていた(写真③)。すぐ隣の小木には古い板の山名板もあった。

 山頂から北側が開けて、白山の霊峰が浮かんでいた。(写真⑥)天空の銀嶺に一拝した後、南西に緩やかに降りる尾根を下る。踏み跡は全くない。低木の薮枝をかき分けて、できるだけ進行方向の左寄りに歩く。岩稜あり、広い草原あり、次第に視界が開けて集落や道路筋が鮮明になる。やがて背の高い照葉樹の林内に突っ込む。獣害防止のネットを苦労して乗り越えると星宮神社境内に出た。神社から県道をとぼとぼ歩き始めた。駐車地まで1時間余かかるなと思いながら、軽四の男性に道を聞くと、「載せてってやる」、とのこと。お言葉に甘えて便乗させてもらった。丁寧なお礼の言葉を述べて別れたが、後で連絡先を聞いておくべきだと反省。見知らぬ外部からの登山者への温かい支援の気持ち。自分だったら出きるだろうかと考えた。

写真⑥ 大平山山頂から 白山

 当初計画通りの行程を終えたが、今になっても記憶に衝撃的に残るのは帰宅後に知りえた明治の農民蜂起事件のことである。加茂地方を襲った大干ばつで困窮した農民たちが家一軒分ほどの狭い山之上富士山山頂に籠った。迫る警察隊と竹槍、刀、鎌で応戦したが、間もなく全員検挙された、と美濃加茂市史は記述している。明治の自由民権運動の中の農民暴発事件だが、現代民主主義の成立への流れの一つの過程として注目すべきことだろう。私は市史で知ったが、今や忘れ去られた歴史となった点を寂しく嘆かわしく思う。せめて富士山頂に説明板くらいは欲しいものだ。

 唯一ネットで知った関高校地域研究部の生徒による忘備録「小原伊佐治と美濃加茂事件」(2020年5月)でも、重要度から見ても日本史の教科書に載せるべき事象であると、指摘している。

<注> 美濃加茂事件

 明治13年に名古屋に自由民権運動の運動団体、愛国交親社が発足した。その東美濃幹事長、小原伊忠治は伊深、加治田、鷹之巣など美濃加茂内の貧農らを組織して地租の軽減、徴兵制の廃止を求めて、各戸長役場に押しかけて県への取次ぎを求めた。総勢約4~500人。多くは貧農の人だった。事件現場を逃れた伊忠治は埼玉・浦和で逮捕され10年の刑に服したが帝国憲法発布の恩赦により、数年で開放された。晩年は、郷里の蜂屋で文房具店を営んでいたいう。首謀者が生き延びたのは不思議なことだ。

<ルート図>

発信:2/8

コメント