月報「わっぱ」 2012年2月(No.363)
高木碕男さんの死を悼む
高木さんは当会の創立者のひとりである。1955年ごろ、大垣市内に銀座街というマーケットがあった。その中で商売をしておられた。そのとき付近の商店主を集めて「登ったろう会」という団体を組織
された。特に登山に堪能な方がいなかったので、自分たちで近辺の山を歩かれた。
また、娯楽の少ない時代だったので、自然志向の人たちが集まってちゃんとしたクラブをつくろうという空気が生まれ大垣山岳協会が発足した。1965年のことで、もちろん碕男さんが中心であった。
早速、活動が始まった。まずは伊吹山北尾根の登山道開削である。これが終わると台湾の玉山ほかの登頂計画へと続く。そして、1968年にはアフガニスタンの中部ヒンズークシュに残された未踏の6026㍍峰を目指す大垣隊に参加された。男ばかりが3カ月に渡って鼻をつきあわせて生活をするのだからギスギスした空気が生まれるのはやむを得ないことだ。その中で雰囲気を和らげる役を果たしたのが碕男さんだった。
時には自慢の喉で「ほっちょせ」や「刈干し切り歌」を歌い、そして時には唯一の戦争経験者である氏の中国でのスリリングな思い出話も出て、ずいぶんとみんなの顔がなごんだものだった。
その後、突然に副会長辞任の申し出があった。創立者であり、会勢も順風満帆だというのにどうして、と思わずにいられなかった。しかし、今西錦司さんがいつだったか漏らされた「人との交わりは“touch and pass”だよ」を実践されたかもしれない。いわゆる「君子の交わりは水の如し」と考えておられたのであろう。そこには、碕男さんの様々な思いや考えがあったのかも知れないが、今や想像しか出来ないこととなった。貴方の来世への旅路が平安であれと祈るばかりである。
2012年1月17日没 享年89歳
高木 泰夫記
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