【 個人山行 】 三界山(1599.7mⅠ△)登山報告 SM
中津川市の阿寺山系にある三界山(1599.7m Ⅰ△)に登ってきた。26年前に登った際、歩いた夕森公園からの登山道は9年前の集中豪雨で崩壊し廃道となった。今回その旧道が通る谷の右岸側の尾根を上がり涼しい風がそよぐ山頂に達した。その行程途中にあった4等三角点「坊主小屋」(1218.5m)に意外な興味を抱いてしまった。行き来2回、点石を探したが、発見できなかった。
- 日程:2020年8月24日(月)
- 参加者:SM(単独)
- 行程:自宅6:00⇒中央道⇒中津川IC⇒国道19号・坂下⇒県道3号・川上⇒県道411号夕森公園⇒丸野林道駐車地8:00⇒三界山旧登山口(標高約880m)8:10→8:25右岸尾根取り付き→9:30点名坊主小屋通過→10:35田瀬登山道出合→11:45三界山12:30→1:40坊主小屋尾根分岐→2:40尾根から降下→3:25岩倉谷旧道出合→3:50旧登山口→4:05駐車地
- 地理院地図 2.5万図:付知・三留野
コロナと猛暑のせいで、巣ごもり暮らしになるのは、われら現世人類の歩んできた道に反する。数十万年の間、朝から晩まで食べるために歩き働き続けて身体をフル稼働させてきた日常がつい50年前の世まで続いた。それが、生活水準や食糧生産技術の飛躍的な増進で身体の酷使は必要でなくなった。では我らの身体を進化発展させてきた大切な「過重労働」が消えたら、元の愚鈍な身体と頭脳に逆戻りするのではないか。コロナ禍が始まって以来そんな思いに駆られる。
岩倉谷に架かる橋のたもとにある旧登山口(写真①)には進入禁止のテープが貼られていた。道はないので苦労もあろうが、心身ともに結構な負荷がかかる。であれば、心身の愚鈍化防止に役立つかな、と思いながら、二つ目の砂防ダムの先で旧道から別れて西側尾根に上がる。右岸斜面は全面3,40年生のヒノキ林。最近間伐、除伐作業が済んだようで、明るい尾根筋の上には青空が広がり快晴が続きそう。
間伐跡が消えると、背丈ほどの高さのササヤブ帯。足下に続く踏み跡を見逃さないように苦労する。ヤブが消えると、イノシシのヌタ場が現れた(写真②)。標高は1200m前後。この辺りに点名坊主小屋の点石があるはず。時間をかけて踏み跡の両側を探したが、低いササ原が続くだけ。普段は三角点探しにこだわることは少ないが妙に気になる。ひょっとすると、点名の坊主小屋にちなんだ小屋の古い残骸が見つかるのでは。結局何も見つけられずに先へ進んだ。
この尾根筋には終始薄い踏み跡と田瀬財産区と国土地籍調査の2種類の標識杭が数十mおきに立っていて、コース確認に大きく役立った。時折背の高いササ帯を突き進みやがて、三界山への現在唯一の登山道である田瀬登山道(仮称)と合流した(写真③ 正面奧が坊主小屋尾根)。広いゆったりした登山道にはササはなく、ひんやりした風が汗まみれの身体を冷やしてくれる。頂上まであと標高差300m。もうすぐだ、と勇んのは浅はかであった。
頂上まで高度150m手前辺りで登山道はすっかり背丈ほどのササに埋まった。スズタケのようで細くて強靱ではないが両腕で漕ぎ分けのに苦労する。ただ、ヒノキの幹に着いているたくさんの赤テープが目に入るので間違うことはない。ササが薄れ平らな道脇に突然大きな1等三角点の点石が目に入った。小さな山名板が一つ。
26年前の記憶はほとんどない。その時の登山メモを見ると、木製の櫓があった。しかし、今回、目に入らなかった。また北東に奧三界山が見えたとする眺望も何度も努めたが全く得られなかった。昔は広々とした公園のように整備されていたが、その後の温暖化による植物繁茂の嵐に山は呑み込まれつつある。
下山では、当初山頂から南東に円形上に向う尾根をダイレクトに降りる予定であった。降り口まで進むと尾根には前にも増して背の高い太いササがびっしり広がる。踏み跡も全くない。直ぐに断念して往路を戻り始めた。下山時でも点名坊主小屋を探したがダメだった。後で三角点の「点の記」を参照すると、三角点の位置は尾根の背を走る旧福岡町と旧川上村の境界線の少し西側だと記載されていた。境界線つまり踏み跡の西側にもっと注目する必要があったのだ。詰めが甘かったと反省。
あきらめて、尾根を南下して小さな鞍部から間伐直後の残採が残る小さな急な尾根を降りた。そして、岩倉谷の清流の手前を通る旧登山道に出た。
三角点名と林道名に採用されている「坊主小屋」はあったのだろうか。三角点は1991年に設置された。選点者は地元の人から坊主小屋の存在を知って点名に採用しただろうし、一帯の共有山林4~500haを持つ田瀬財産区は管理に必要な新林道の名に坊主小屋を付けたのは山中に坊主小屋があった、または過去に存在したことを物語っているはすだ。それが点名坊主小屋の近くにあったのではないか。そう想定して帰宅後、田瀬財産区や中津川市の山林担当者に聞いてみた。田瀬財産区の管理者のSMさんは、言われてみればその通りだが、それを裏付ける資料あるいは説話は聞いたことがない、という。
かつて修験道行者が山中遊行の場や中継所とし山深い所に小屋を建てた例は他に幾つもあろう。点名坊主小屋の近くに実在したのなら、そこから行者は三界山そして奧三界山さらに長野・岐阜県境尾根を進み井出ノ小路山へと果てしない遊行をしていたのか。
たわいない想像を巡らす内に、行者たちの山中を歩き極める、歩き尽くす強靱な体力と探求力にある種のあこがれを抱いてしまう。と同時に坊主小屋の存在を確認したい気持ちが抑えられない。完
発信:8/27
コメント