大垣山岳協会

清滝山 2023.11.15

清滝山

月報「わっぱ」 2023年12月(No.505)

【 週日山行 】 清滝山 ( 438.9m Ⅲ△ ) OM

  • 日程:2023年11月15日(水)(快晴)
  • 参加者:L.OM、AM、IY、OS、KM、NT、MK
  • 行程:中之江駐車場7:25=徳源院駐車場8:15~8:25-北畠具行墓8:40~9:00-登山口9:20-清滝山10:15~11:15-徳源院11:55~12:10-徳源院駐車場12:15=中之江駐車場13:15(解散)
  • 地理院地図 2.5万図:関ヶ原(岐阜12-2)[北緯35°21′/東経136°23′]

 近江(今の滋賀県)は京の都(現在の京都)に近く、江戸時代以前は大小多くの戦乱がありました。それにより低山には山城跡、麓には史跡や墓石が多くあります。今回は米原市柏原の小さな集落、清滝地区にある南北朝時代史跡と低山の歴史探訪トレッキングを実施しました。事前に史跡箇所を理解していただくよう、簡単な資料をメール送信しておきました。

 国道21号より清滝地区にある徳源院方向の標識を右に曲がり、徳源院より約30m手前にある駐車場に駐車。各自登山準備完了して出発しました。すぐに道路を右に曲がる所に鐘楼があります。なぜこの位置に? その昔、徳源院迄この道の両側には十二坊とよばれる寺院が立ち並んでいたということで理解できました。

 集落を通り過ぎ、農業用水と思われる池の縁を通リ、獣害柵のゲートを開け中に入ります。林道を進みまたゲートを開いて、外に出て左に曲がり参道を登ると北畠具行墓に着きました。

 左に石碑があり正面に墓石あります。北畠具行は後醍醐天皇に仕え、鎌倉幕府打倒の中心的存在でしたが、笠置落城の後幕府方に捕らえられ鎌倉に護送される身になりました。京極道誉(きょうごくどうよ)は徳源院に彼を留め、一ヶ月余りにわたって幕府に具行の命乞いを続けましたが、その願いも空しく元弘2年(1322年)6月19日にこの地で斬首されその一生を閉じました。

 池迄戻り集落の中を通ると民家の庭先の柚子の木に実が一杯付いていました。しかし実は小さく、この夏の猛暑と雨水が少ない影響と思われます。

清滝集落から登山口に向かう。晩秋の風情

 集落を通り過ぎ、獣害柵のゲートを開き、少し進むと登山口がありました。登山道は急ですがコンクリート枕木を取り付けた階段になっていて左側に手摺りが設置しあるので安心して登る事ができます。階段がなくなった頃、上から白い上下のトレ-ニングウェア姿の女性が駆け下りてきました、対面すると協会会員の塩川(眞)さんでした。ビックリです。

 周りはスギの植林で急斜は続きます。左に屈折する所より斜面は緩やかになってきて、周りは雑木林に変わってきました。やがて清滝山山頂に到着。山頂は広く芝生ぐらいの高さの草で覆われています。4本の太いスギの木があり、三角点の保護石は整頓よく置かれていました。

 清滝山は別名大松明山とも呼ばれています。8月15日の夜、地元の青年たちが竹の柴で作った大松明を担いで山頂まで登り、松明に点火して燃え上がる大松明を担いて麓まで駆け下ります。

 山頂からは北に伊吹山が真正面で、弥高尾根の全容が見えます。東側には笙ヶ岳、南宮山、遠くに金生山の西側が見えます。いつも大垣から東側を見ているので新鮮に見えます。

 下りの登山道は急斜で濡れている所があるので、スリップしないよう声掛け合い慎重に清滝神社まで下りました。

 2つ目の史跡、徳源院を参拝。徳源院は中世北近江を支配した京極家の菩提寺。江戸時代、京極高豊が集めた京極家代々34基の宝篋印塔が並ぶ京極家墓所は国の史跡になっています。京極家墓所と三重塔は工事中のため、残念ながら参拝することができませんでした。

<ルート図>

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