大垣山岳協会

歴史散策週日山行・清滝山 2023.11.15

清滝山

【 週日山行 】 清滝山 ( 438,9m Ⅲ等△ ) 滋賀県米原市大平 NT

 11月の週日山行は小倉幹雄リーダーで歴史散策山行と銘打って米原市の清滝で行った。後醍醐天皇側近の墓所を見学した後、大松明行事が行われる清滝山を登り下山後に鎌倉時代から続く京極家の菩提寺徳源院にお参りをした。(TOP写真:清滝山の背後に伊吹山を見る)

<ルート図>
  • 日程:2023年11月15日(水)
  • 参加者:LOM、AM、IY、OS、KM、NT、MK
  • 行程:徳源院駐車場8:22-北畠具行墓8:38-清滝集落9:02-清滝山10:16~11:12-徳源院11:57-徳源院駐車場12:15

 徳源院駐車場は我々だけで貸し切り、O Lより今日の順路の説明を受けて出発した。鐘楼が駐車場よりかなり下で往時の寺の規模が計り知れる、先ず北畠具行の墓所へ。

 やはり鎌倉期から続いた京極家栄華の里、歴史の香りがプンプン漂う。道脇に五輪塔が幾重にも並べられ斜面には倒れたそのパーツが無造作に放置されていた。

 北畠具行の墓所を訪れた。具行は後醍醐天皇の側近で鎌倉幕府倒幕に与して捕えられ鎌倉へ護送途中の柏原で処刑された。守護の京極道誉は一時此処に留置き助命嘆願を行ったが叶わなかった。後醍醐は倒幕に一切関知せずと弁明書を鎌倉へ送り命乞いして逃れた。

 北畠具行の墓は立派な宝篋印塔であったが後醍醐は命を懸けて守るほどの人物だったか疑問である。後に足利尊氏始め鎌倉へ不満を持つ武家の血によって倒幕は成功した。しかし、後醍醐は皇統の権威によってと勘違い、独善的な政治手法は朝令暮改を繰り返し建武の新政は3年で破綻した。以後南北朝の大混乱時代を招き血の流れぬ日はない60年となった。

 清滝集落から畑の作業道を通り清滝山登山口へ、梅の木はすっかり葉を落としていたが柚子の木は鈴なりに黄色の実をつけていた。だが今年の柚子は雨が少なく小ぶりで有った。

 急傾斜の道は丸太の疑木コンクリート手摺りと階段が設置されており上に導いた。とその時、上から女性が駆け下りて来た。挨拶を交わし、顔を見れば会員のSMであった。此処が彼女の道場なのか?本人は照れて「皆さん来ると知って」と言っていた。次週、山に誘われているが70歳半ばになってこんな所で鍛えている鉄女にしごかれそうな・・・

 尾根に上がりきると傾斜が落ちて歩きやすい。古くて読みづらい道標には「山の神」と書かれていたので祠などないか杉の根元などを捜したが確認出来なかった。

 本日のメンバーは最高齢IY氏の88歳を筆頭に80才以上が5名、平均年齢80,14歳で74歳の小生など小僧である。若者のようなスピードや瞬発力はないが自分のペースを守ればまだまだ登れる。何より山へ行けることが嬉しく健康は足からを実践している。

 前方が何やら明るくなっている。早や山頂のような兆しに駆けたくなるが、そこは安全第一、転んで骨でも折ったら山人生が終わってしまう。ゆっくり味わって落ち葉を踏んだ。

 いきなり東と南の視界が開けて柏原の町並みが見えた。成菩提院(256,3m)の山裾を囲むような半円状の急カーブを電車が走っている。東海道線は柏原駅から近江長岡間が逆S字状の超急カーブが3ヶ所、あれではスピードを上げられない。東の奥に笙ヶ岳、その北に南宮山が見えている。

 清滝山頂肩越しの南に霊仙山が在って、それから東に緩やかに尾根を延ばした先の高みに鉄塔が見えている。ボンテン(犬の尾)617,6mに違いなかった。

 点名・大平(438,9mⅢ等△)を前に記念写真。北に見えるのは勿論伊吹山で弥高尾根を真っ直ぐ南に延ばし弥高山で東に支尾根の上平寺尾根を落としている。伊吹山の左最奥に霞んで三角形の山頂部を見せているのが金糞岳である。

 毎年8月15日、清滝地区の青年は精霊を迎えるために1m×10mもある大松明を担いで清滝山へ登る。そこで大松明に点火する。それは麓からでも眺められ壮観だそうで700年前京極家の菩提を弔う火祭りが起源という。当日は女人禁制のようだ。

 山頂から尾根は緩い下りであったが谷筋の約170mの下降は地面が多分に水分を含みジュクジュク、滑りそうで油断ができなかった。全員声掛け合って慎重に下ったことも有って一人も尻を汚さず清瀧神社に降り立ちホッとした。

 清龍寺徳源院と背後は清滝山。江戸中期、四国へ転封されていた丸亀藩主京極高豊が北近江に散在していた始祖以来歴代当主等の墓を此処清滝に集めたという。拝観料500円で国史跡34基の宝篋印塔や小堀遠州作と伝わる池泉回遊式庭園の見学が出来たのだが登山靴を脱ぐのが面倒で止めた。

 残念だが修復工事中で見られなかった朱塗りの三重塔は県の文化財に指定されているそうだ。修復支援のお願いの看板が立てられていた。

 京極(佐々木)道誉は北近江の守護でバサラ大名と呼ばれ派手を好んでいたとか、彼が好んでいたと伝わる枝垂れ桜「道誉さくら」である。道誉は時勢の変化を読むことに長けていたようで戦では勝勢の方への裏切りは度々、旨く立ち回り足利政権で要職を得たようだ。

 翻って足利尊氏に京極道誉のような割り切りとリーダーシップが有れば南北朝の失われた60年は無かったかもしれない。尊氏の優柔不断と後醍醐の皇統権威主義が南北朝の動乱をより長引かせた。動乱に終止符を打つには三代将軍義満まで待たねばならなかった。

 山登りと南北朝時代歴史散策の一日は快晴で暖かく最高の登山日和であった。完


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