大垣山岳協会

令和4年還暦、古希祝賀山行・小谷山 2022.12.04

小谷山

【 月例山行(忘年山行) 】 小谷山 ( 494.6m Ⅲ△ ) 丹生 統司

 我が会は例年、還暦と古希を迎えた方へ記念品を贈呈しお祝いをしている。今年は福井県越前市に宿泊し祝賀会を行った。美味しい料理を戴き乍ら楽しい山談議に花が咲いた。翌日に計画していたホノケ山は雨雲に邪魔をされたが滋賀県小谷山に転戦、去りゆく秋を惜しみつつ歴史山道の落ち葉を踏んで歩いた感傷報告である。

<ルート図>
  • 日程:2022年12月3、4日
  • 参加者:L.安藤正、岩田嘉、内牧真、大谷早、大橋辰、大塚花、加藤美、桐山美、後藤正、塩川眞、堀嵜尚、杉本眞、竹森せ、丹生統、藤野一、堀 義、宮澤健、三輪唯、森川浩、吉田正
  • 行程:後述
  • 地理院地図 2.5万図:虎御前山

12月3日(土) 祝賀会(越前市・湯楽里)

 先ず堀会長の挨拶の後、本年古希を迎えられた大橋さんに記念品が贈呈された。続いて大橋さんよりお礼の言葉と当協会で指導を受けた先輩方の思い出話が披露された。

 乾杯の後は懇親会となって和やかに盃を重ねた。酒宴が落ち着いた頃を見計らい自己紹介を兼ねて今後の目標や登りたい山の1分間スピーチを行った。

 祝賀行事といえどもコロナ禍を意識して礼儀をわきまえた品格のある懇親会であった。来年は新会員の歓迎会も兼ねたらという意見も有ったがより多くの方が参加できて会が活性化できれば嬉しい限りである。数日前、今年還暦の杉本誠さんは在住の静岡県から遠路我が家を訪れ「仕事でどうしても抜けられない」お詫びにと差し入れを置いて行かれた。彼等に支えられて会の存続が有ると改めて気付かされた。

 その後は各部屋に戻り天気を気にしつつ、明日の山行に支障をきたさない程度、ほどほどといいつつ遅くまで山談議に花が咲いた。

12月4日(日) 小谷山歴史散策登山(Ⅲ等△494m) 雨後曇り

  • 行程:ガイドステーション駐車場9:52-大広間跡10:41-小谷山11:34-ガイドステーション駐車場12:37

 越前市の宿での朝食中に雨が落ちて来た。が、想定内で滋賀県まで撤退し雨が落ちていなければ小谷山へ転戦と昨夜決めていた。賤ケ岳を過ぎると雲は薄く小谷山での歴史散策登山に支障はなかった。観光客は怪しい天気に少なくて我々にとっては幸いだった。

 やはり滋賀まで来れば日本海側とは違う、と思った天気だったが雲が意外に早く追いかけて来て小谷山山頂部を隠し始めた。

 小谷城は北近江を支配した浅井家三代の居城で有る。浅井賢政(かたまさ}は南近江の六角義賢(よしかた)に父祖の代から臣従させられ「賢」の一字を戴いて六角家家臣の娘を妻にしていた。賢政は浅井家家督を継ぐや六角氏の干渉を嫌って独立志向を強めた。結果、戦となるも此れに勝利して独立を果たすと妻を離縁し名も浅井長政と改めた。

 独立を果たした長政は六角氏と完全に立場が逆転し北近江の実力者となる。その後、美濃を平定した織田と同盟を結ぶ、六角氏は信長によって観音寺城から追放された。信長の妹「お市」と政略結婚をして一男三女を儲けている。政略であったが夫婦仲は良かったようだ。改名の長政の「長」は信長にあやかったという説もあるようだが資料の裏付けはない。

 その長政が金ヶ崎の戦では朝倉に味方して織田を裏切り背後を突いた。朝倉への義を貫いた?そんな綺麗ごとで戦国下剋上を生きて泳ぎきれる訳がない。長政には野望の炎がメラメラと燃えたはずだ。天下の将軍を操る信長が袋のネズミ、こんなチャンス二度はない。が、しかし信長の五感は鋭く逃げ足も速くて長政には大失策となった。姉川で信長に打ち負かされると家臣の離反が相次いだ。目と鼻の先、横山城は織田軍に下り木下藤吉郎は城代に任ぜられ此れを足掛かりに出世街道をひた走ることになる。右奥は山本山で此処の城主も藤吉郎の人たらしに降参。正面の虎御前山は小谷城総攻撃の信長本陣が置かれた。

 藤吉郎の調略で浅井方の支城主諸将は次々と降参して織田に寝返って行く、小谷城下の田畑は刈田狼藉(かりたろうぜき)といって収穫期になると作物を織田軍が刈り取ってしまう。浅井方は兵糧米を失うだけでなく知行地を守れないことから人心が離れていった。

 浅井氏の栄華を忍ばせる千畳敷の館が有ったとされる大広間跡。平時は清水谷の館で生活し非常時に堅固なこの城に籠った。浅井三姉妹末っ子の「お江」は小谷城攻防の戦時下に此処で生まれたという。お江は3度目の結婚で徳川秀忠に嫁ぎ三代将軍家光を産んだ。

 長政の一縷の望みは足利義昭による「信長包囲網」であり「武田信玄の上洛」であったが信玄は途上で病死した。援軍に駆け付けた朝倉義景だったが信長に蹴散らされて長政より先に落命していた。孤立無援の長政は此の本丸を死守しようとするが多勢に無勢で追い詰められ家臣の屋敷へ逃れた。この石階段を下り左下の赤尾屋敷で観念し自刃したという。長政は浅井氏を近江の強国にのし上げ全盛期を築いたが「金ヶ先」のしくじりが命取りとなった。信長に協力しておれば秀吉や家康よりも天下は近かったと思われるのだが。

 小谷落城は木下藤吉郎の戦功が大きい。藤吉郎は姉川の合戦以来、横山城を拠点に浅井方支城主の将を次々に織田へ寝返らせ小谷城を孤立無援にした。小谷城決戦に於いても京極丸内に内通者を得て清水谷から急斜面を攀じて夜襲をかけ一晩で陥落させた。これによって浅井久正の小丸と長政の本丸が分断され僅か2日で落城したと言われる。

 藤吉郎はこれまでの刀と槍の戦から調略という最も味方に損害が少ない戦術で難攻不落といわれた小谷城を陥落させた。これ以前に藤吉郎は僅16人で稲葉山城(岐阜城)を奪取して当主を諫めたという天才軍師竹中半兵衛を三顧の礼で迎えていた。半兵衛は一時期浅井家の禄を受けており浅井諸将との人脈をフル活用し調略を行ったと思われる。

 小谷山山頂の大嶽(おおずつ)城は朝倉家の援軍が守備していたが小谷城本丸が陥落する2週間前に浅井家家臣の寝返りで陥落していた。信長は逃げる朝倉軍を越前一乗谷まで追討して館や城下を焼き払った。当主の朝倉義景は家臣の裏切りによって殺され浅倉氏は滅亡した。それから約1週間後、信長は近江に引き返すと小谷城への総攻撃を命じた。この山頂からと中間の京極丸から攻められて難攻不落といわれた城は陥落、浅井氏は滅亡した。

 つわものどもが夢のあと。小谷山頂は往時を偲ばせる土塁に囲まれ、人工的な平地には木々が育ち展望は利かない。雨雲が周囲に垂れてガスが辺りを包み早く立ち去りたい気持ちにさせた。

 木下藤吉郎は小谷城陥落の戦功によって北近江12万石の城持ち大名となり羽柴秀吉と改名した。居城は小谷山ではなく琵琶湖岸水路交通の要衝である今浜改め長浜に築城した。防御中心の山城から城下町経営、経済を重視した秀吉の先見の明で以来小谷城は廃城となった。落城から450年、崩れて無造作に転がっている数多の石に敗者の必然が感じられた。

 小谷山を周回してガイドステーションまで帰って来ると東屋が空いていたので此処で昼食休憩を行った。ベンチとテーブル付きの全員が座れる大きな東屋で一時を過ごした。入会の浅い方から87歳の最高齢者まで幅の広い参加は我が会の良い所で一番の自慢である。年代を越えてコミュニケーションが図れた。お酒も料理も美味しく有り難い企画に感謝を申し上げる。

 今年も残り少なくなって雪の便りが届くようになった。アイゼンやワカンの手入れをしっかりして冬山に備えよう。完


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