大垣山岳協会

山考雑記 車社会の進展が傾斜地の村を消した 2022.11.17

飯地高原

 木曽川のダム湖に面した急斜面に昔あった川平地区の廃村跡(恵那市飯地町)にこの春以来の探索に出かけた。12軒あった民家は50年前に全戸離村した。旧住民の一人は自動車社会が進み、車が使えない地では生活不能となった、と述懐する。十分に理解できる離村理由である。一方で近年、車社会の不都合な面にも気づく。山登りでも車は不可欠なツールである。奥地に車で入る自分も心配になってきた。

【 個人山行 】 恵那市飯地 川平集落跡 鈴木 正昭

  • 日程:2022年11月17日(木)
  • 参加者:鈴木正(単独)
  • 行程:自宅5:45⇒国道41号⇒国道21号バイパス⇒岐阜県道65号⇒7:10衛生センター駐車地(瑞浪市日吉町・深沢地区)7:30⇒登山コース変更⇒県道65号⇒県道366号⇒八百津・人道の丘⇒国道418号⇒県道412号⇒恵那市飯地町南地区駐車地(標高約510m)
    駐車地発9:15→9:30川平三軒広場(仮称・約430m)→10:10最初の石垣→11:00屋敷跡石垣11:40→12:45三軒広場→1:15駐車地
  • 地理院地図 2.5万図:武並

 恵那市の飯地高原へは、過去4回も木曽川南岸の瑞浪市日吉町深沢から五月橋を通り旧国道418号を経て入った。今回もそのつもりで衛生センター跡空地に駐車して出発しかけた。そこへ、土木会社の作業トラック数台がやってきて、取り付け道路の工事中で危険だから通行禁止だ。それに五月橋も通行禁止で金網柵がしてあるという。どうも無理はできないと悟った。

 やむなく、大回りして木曽川北岸の飯地高原の南地区から入る。車で1時間半かけて、南地区南端の車道終点に駐車した。ここからは車は通行できない。両側から竹藪が被さる廃道化した道を進み川平三軒広場に着く。まぶしいほどの紅葉に包まれ、3軒の廃屋はこの4月に訪れた時にも増して自然の中に吸収されつつあるように見えた。(写真①)

写真① 川平三軒広場

 川平集落はこの広場から木曾川右岸べりの道路(現・旧国道418号)までの細い山道・川平道沿いに点在していた。歩き出して間もなく、踏み跡が各所で消えては現れる。枯れ朽ちた倒木が路上にまたがり折り重なる。(写真②)春訪問時は見られなかった情景だった。強風や豪雨の仕業だろう。苦労して踏み跡を探りつつトラバース状の道を下る。標高270m付近で山側に最初の石垣が現れた。(写真③)高さ2m余、長さ30mほど。石垣の上に上がると高さ1mほど、長さ10m余の小さな石垣があった。スギの大木が植わっていた。下の段は家屋があったのだろう。上の段は平坦部分が少ないこと、大木の存在から家屋敷だとは思えない。

写真②
写真③ 標高270m付近 最初の石垣

 古道跡をさらに100余m下るとやはり山側に大きな石垣。(写真④)高さ3~4m、幅40mほど。台地の幅は25mほど。石の手水鉢と50㎝ほどの穴があった。トイレ小屋のようだ。石垣の上にも上がったが、家屋があった気配はなかった(写真⑤)。春の山行でこの石垣以降の道筋には民家はないことを知っている。

写真④
写真⑤

 三軒広場から木曾川沿いの旧国道まで、標高差約230m距離約1㎞の川平道沿いに昔から12戸の民家があった。だが、1970年代までに全戸が離村した。

 今山行で離村世帯の家屋跡を特定しようと考えた。以前、地元研究者からいただいた1955年での住宅位置図と元川平住民の藤井K子さんの見取り図を参照しながら石垣地帯を探索した。どこにどの人の家があったのか、確認したかった。最初の石段下に纐纈Kさん、下部の石段広場に纐纈Sさん家だろうと類推したが、自信はない。川平道は一本だが、家から家へ派生する小道がたくさんあったのだろう。無人化して50年ほど。倒木や腐葉土の下に埋もれてしまったのだ。だれか元住民に案内してもらえば可能だろうが、実現できそうもない。なぜ、各戸の所在位置の確認にこだわるのだろうか。自分でもつかめない不思議な動機である。

 各戸の個別位置はつかめないまま、帰路に付く。踏み跡のない斜面を登るうちに方向感が狂ってしまう。川平道を離れ大きく西側に曲がり、急斜面をよじ登りかつて歩いたことのある尾根筋に出た。尾根の北側には地図にない廃林道が通じていた。やぶの少ない尾根筋をしばらく進むと、三軒広場そして駐車地に戻った。歩いた距離はわずかだったので、まだ時間はたっぷりある。川平を出て今、南地区在住の藤井K子さん宅を訪れた。

 川平での生活について伺った。電気は通じていたが、米やプロパンガスなどの重量物の買い物が大変だった。時には20㎏余の荷を背負って木曽川対岸の瑞浪市日吉から帰る日もあった。4時間ほどかかった。発熱した子供を連れて日吉からバスに乗って瑞浪の医者に通ったことも。

 我慢に我慢を重ねて頑張ったが、自動車社会の波が押し寄せてきて「もうあかん、と思った。生きるためには出るほかない」と考えた。夫は自動車免許を取ったが、自宅まで車で入れない。子供たちは既に外部の地に出ていたが、将来の生活を考えると離村の外に道はなかった。1973年に川平を離れて生家近くの南地区に移住した。藤井さんの離村は川平地区14戸の中で最後に近い決断だった。

 考えると山登りの行程で車社会の現実に突き当たることは多い。なんでこんな山奥に自動車道を造るのか。誰も来ないような橋や園地、無駄な施設の出現に腹が立つ。一方で藤井さんのように生活を守るうえで車社会を受容するほかない不可欠な選択もある。車依存は「諸刃の剣」である。無くてはならない面も勿論あるが、反面危険な要素も持つ。人は歩いて鍛えないと体が維持できない。私の山登りの狙いはその意図を含むが、一方で登山口までは車を長時間運転する。ただ、極力車通行の抑制に努力しているつもりだ。他にも車の排ガスによる地球温暖化助長、高齢者や若年者による悲惨事故、自動運転化の危険性。車多用社会での危険性も十分注意しなければならない。50年前の川平離村の歴史を知り、車社会の現代的危険性を探りたいと思っている。 完

<ルート図>

発信:11/21


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