大垣山岳協会

山考雑記 飯地高原の村里歩き 廃屋跡に学びたい 2021.11.15

飯地高原

  恵那市の飯地高原に入るのは3度目である。過去の2回はいずれも沢登り山行だったが、今回は廃村地域巡りとわずかなやぶ尾根の登り降り。無人の集落跡や崩壊した一軒家の姿に感銘を受けた。ここにどんな生活や苦楽があったのだろうか。知っておきたいものだ。

【 個人山行 】 飯地高原 鈴木 正昭

  • 日程:2021年11月15日(月)
  • 参加者:単独
  • 行程:自宅6:40⇒国道41号⇒新山川橋・国道418号⇒福島段左折⇒新旅足橋⇒県道353号⇒潮見⇒県道412号⇒8:40南口で駐車(標高580m 岐阜県恵那市飯地町南)
    南口駐車地8:50→市道南下→9:30南地区墓地→10:35点名杣木屋(△Ⅳ・517m)→10:50秋葉神社→11:30川平集落跡→湖畔への廃古道→1:00旧418号出合(標高200m)→大沢林道→1:40右岸枝谷小尾根取り付き→2:10廃屋出合→2:10廃古道→3:10南神社→3:40駐車地
  • 地理院地図 2.5万図:武並

 市街地から遠く離れた飯地高原は人口減少の荒波にさらされ、集落がやせ細り消えつつあると聞いた。その現況を見届けようと、南口の県道412号脇に駐車した。県道には巨大なダンプカーがひっきりなしに行き来する。これは新丸山ダム建設に関連する国道418号の延長工事に伴うものだ。一方、歩き出した恵那市道は立派な舗装路ではあるが、車の通行は全くない。青空のもと、静かな道沿いには立派な新しい民家が数軒。だが、人の気配はない。

 沿道脇に縄文遺跡跡、縄文スギと伝わる古木や弘法堂など古い歴史を持つ南地区を南西に進む。間もなく左手に南地区の墓地があり、先祖の墓参りに来た男性に話しかける。愛知県尾張旭市に住む柘植Sさん(72)。実家はここ南地区にあり、お参りに来たそうだ。子供のころ、1.5㎞ほどの飯地の中心地にある小学校、中学校に歩いて通った。だが、同級生にはずっと先の川平集落の最南部、木曽川(丸山ダム湖)べりの家に住む友もいた。友人は飯地の中心地にある小学校、中学校まで毎日歩いた。距離は4㎞、高度差が400mほどもある。毎日、全身全力の登下校。今から考えると驚嘆する、と懐古された。私も仰天した。本日の山行高度差よりぐんときつい行程に毎日耐えたのだ。

 当初から川平集落跡を訪ねる計画だった。舗装道路は思ったより先まで続いていた。南地区の最南部に杣木屋(そまごや)とう地名がある。その市道脇の家に住む柘植Nさんに声を掛ける。南地区の現住者は今、20軒。うち、18戸が柘植姓だそうだ。住むのは年寄ばかり。近くに山林15haを所有しているが、木材価格の低迷で売ることも出来ず、苦しいと嘆いておられた。

 Nさんと別れてすぐ、舗装路は狭くなり、木枝や枯葉が堆積し車は通れない。廃道化した舗装路はやがて川平集落の平坦地に出た。入口に1軒、少し離れて2軒の廃屋が建ち、コンクリート土台だけの棟もあった。廃屋を背に草に覆われた広場が嬉しい(写真①)。そこで昼食を採った。真っ青に輝く空がまばゆい。カエデや広葉樹の紅葉が始まり広場を囲む。木曽川畔から延びている電線が生活の跡を思わせる。昔は樹林も背が低く、もっと明るかっただろう。子らが遊び回りにぎやかな集落広場だった、と想像した。(写真②=川平の廃屋)

写真①
写真② 川平の廃屋

 帰宅後に元川平集落の住民のFKさん(夫人89)にお聞きした。当時集落には計12戸が住み、上部に8軒、下のほうに4件あった。夫人は1952年南地区の平野部から川平に嫁ぎ、養蚕やコンニャクイモなどの栽培で生活していた。1973年に約20年住んだ川平から上流部の南地区に移転した。その後も移転者が続き、およそ10年後に全戸離村、無人となったという。夫人は川平時代を振り返る。同地でお米がとれないので、古道を経て旧国道から木曽川に掛かる五月橋を渡り瑞浪市日吉町に行き買い求めた。農業に使うわらも買い担いで帰った。また、歯医者や医師に掛かるにも日吉まで出た。上り下り累計高度7・800mを歩く難行が日常の生活だったようだ。

 川平中心部から木曽川畔に降りるF夫人たちも通った古道に向かう。鬱蒼としたヒノキ林内に大きく折り返す荒れた歩道。古道を外さないように注意して下るが途中で見失しない、うろつく。(写真③=前方への踏み跡は古道ではなく、新丸山ダム工事関連の道らしい)結局、道なき小さな尾根筋を強引に下って木曽川の丸山ダム湖畔の旧国道418号に降りた。旧国道は2年前に歩いた時より分厚い枯葉と木枝に埋もれていた。新しい立派な418号は、今延長工事が内陸の山地で進んでいる。木曽川べりの旧道は湖水面が上がる新丸山ダム出現によりやがて水没する。

写真③

 大沢川河口から川沿いの大沢林道を進み、500mほどで小さな枝沢の左岸尾根に取り付く。道ない急な尾根筋。広葉樹二次林が続き、その先でヒノキ人工林に変わる。30分ほどで瓦屋根がペチャンコにつぶれた1軒3棟が現れた(写真④)。動物でも飛び出してこないか、怖かった。後で聞くと、一軒の養蚕農家で30年ほど前にやはり、南地区中心部に移転したという。廃屋の裏を登ると歩道跡、さらに進むと地図上にある車が通れそうな幅広の道が北上していた。路上には枯葉の堆積と倒木の数々。歩く人のない廃道だった。やがて、舗装路となり南地区の総社的な南神社を経て駐車地に戻った。

写真④

 登山の舞台は山や谷や沢が本筋であるが、今山行は廃村山野や過疎化の村里を歩き、そこに若干のやぶ山歩きを組み合わせた。

 低山山行をしていると、山中奥深い地にかつての集落の廃村跡に出合うことがある。高度経済成長により、奥地住民は暮らしやすい都市部へ流出したのだ。自然かつ当然の時代現象ではある。ただ、旧奥地住民たちの生活体験に学び、教えられる教訓がありそうに思える。例えば、都市部にすむ現代住民や現代企業のゴミ出し放題、車の使い放題、温室ガスエネルギーの使い放題。自然生態系に反する放題生活様式はこのままでよいのか。

 この点はもちろん今の山間地住民も含むのだが、現代人の温室ガスエネ多消費は将来の自滅を招くと予言される。そこで、長く小消費の生活法を経験した廃村民たちの知恵の中に現代での小消費への手がかりが見つからないかと思う。やや、突飛な推論かもしれないが、そう思うと廃村に迫る山行に妙に引かれるこの頃である。完

<注>新丸山ダム
 現在の丸山ダムの提高より20mかさ上げした新堤体を造る。有効貯水量は現ダムの2.5倍の約9000万㌧になり、水害制御機能が強化される。同時に発電出力も3.8万kw増えて最大20.3万kwとなる計画。昨年4月に本体工事に着工、2029年度完工の予定。総事業費約2000億円。

<ルート図>

発信:11/19

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