暗い林内の急斜面にそそり立つ石垣は40年前まで人々が暮らしていた住家の跡だった。木曽川の丸山ダム湖の北側斜面にかつて存在した川平集落を再訪した。昨秋には行き着けなかった生活路の川平道と沿道の住宅跡を現認できた。廃村となり約40年。旧住民たちの労苦に満ちた記憶が消えつつある。私たちや後世の人々にとって大きな損失ではないか。
【 個人山行 】 恵那市飯地 川平集落跡 鈴木 正昭
- 日程:2022年4月19日(火)
- 参加者:鈴木正(単独)
- 行程:5:50自宅発⇒尾張パークウェイ⇒国道41号⇒国道21美佐野⇒岐阜道65号⇒7:20瑞浪市日吉町の深沢地区駐車地7:40→8:10木曽川五月橋→8:20旧国道418号出合→9:00名場居川橋→9:30廃屋跡→斜面取り付き→10:25石垣数本発見→10:50炭焼き跡?→尾根の背出合→11:40川平集落跡平坦地12:05→周辺散策→2:00川平集落跡平坦地→2:20古道川平道降下→2:50石垣地帯始まる→3:00巨大石垣数本(写真④)→3:40旧国道出合→5:15駐車地
- 地理院地図 2.5万図:武並
昨年11月に訪れた恵那市飯地の川平集落跡を再び歩き訪ねた。前回は廃屋3戸が残る最北部の平坦地には着いたが、急峻な斜面に点在した10数戸の住宅跡への到達には失敗した。川平集落は恵那市飯地町の南西の端にあり、南側に木曽川の丸山ダム湖が広がる。前回は北側の飯地町北部の南地区から歩いたが、今回は逆に南側の瑞浪市日吉町の深沢地区に駐車。ダム湖にかかる五月橋を渡って湖畔沿いの旧国道418号を東進した。名場居川橋を渡り400mほど進んだ位置で山側の石垣上に上がる小道を見つけて登ると人家跡があった。コンクリート製の手水鉢やポンプのような鉄製器具が転がっていたが、きれいな草原の中にワチガイソウの白い花がたくさん咲いていた(写真①)。
前回訪問後に教示を受けた南地区の郷土史家、柘植建蔵氏からいただいた1955年当時の住宅配置図によると、ここは纐纈Jさんの家だった(標高約200m)。そこから北東側の斜面を登り始めた。薄い踏み跡が川平平坦地からの古道かと期待したが、やがて消えた。やむをえす、急斜面をどんどん上がると、小さな石垣が4本ほどあり突っ切ってその上方の狭い平地に小規模な石積み数か所。家屋としては狭く、炭焼き跡か。このすぐ上で尾根の背に出た。地図上の438m点のある広い緩い尾根。この先に見覚えのある川平平坦地に出た。明るい日差しを受けるまだ健在の廃屋3戸(写真②=西側の家)。この光景がいつまでもつのか。心配である。
結局、木曽川畔に出る古道(川平道)を歩き、沿線にあった住家跡を確認することは出来なかったので、下山で勝負しよう。ただ、時間的余裕があるので、南地区から名場居川筋を降りて木曾川畔に出る古道「名場居道」を偵察しようと出かけた。汗ばむ好天のもと、沿道のアジサイ、コブシなどの花々を楽しみながら進んだが道迷いで時間を失い、あきらめて川平平坦地(標高約430m)に戻った。
廃屋を見ながら草地に腰を下ろし小休止の後、古道を下り始める。すぐ先に見覚えのある廃車の軽トラと小屋があった。ここから前回は東に延びる踏み跡に進んでしまった。これがミスで、右側つまり西側に降りる明確な歩道が延びていた。コンパスで方位確認をすればミスを回避できたのだ。ここからだだっ広い沢状の斜面を南西にジグザグ、トラバース気味に下る。全面スギとヒノキの分厚い人工林の下。見通しは全く効かない。標高100mほど下がった地点から等高線にそって石垣が現れた(写真③)。高さ2m前後。長さ20~30m。道沿いに何本もあった。上の方に間隔を置いて幾層にも重なっているが見えた。奥行きが狭く、上に上がってみても何も残っていない。多分、畑跡だろう。
さらに進むと規模の大きい石垣が数か所あった。高さ4mもあろうか。長さは30mほどもある(写真④)。後で家屋跡だと類推したが、残念なことに、上に登り観察する余裕がなかった。歩道跡は倒木や土砂崩壊で消えかけていて前進するのに精一杯だったのだ。
家屋石垣帯脇の古道上に古い家庭ごみが散在していた。小型テープレコーダーらしい家電品や陶器のかけら、赤ちゃんの小さな靴などの衣料品(写真⑤)。いずれも間もなく土壌の中に溶け込みそうな姿だった。ここには5軒の農家が昔暮らしていた。昨秋に知遇を得たFKさん(夫人89)はここの一番上部に住んでいた。再び当時の生活を聞いてみた。夫人宅からは少しずつ離れて川平道沿いに4軒が高い石垣で作った敷地に建っていた。10余人いた近隣の子供は川平平坦部の北側まで30分ほど歩き、当時あった東濃バス乗り飯地の中心にある小中校に通った。
急斜面にある居住地には平地は少なかった。でも、子供たちは寄り集まり木登りやボール遊びに賑やかな時間を過ごしたという。しかし、大人たちには苦労と忍耐の生活だった。狭い石垣農地でコンニャクイモや養蚕のための桑の栽培、自然薯の採集。炭焼きもした。時には出稼ぎ労働。生活用品の入手も重労働を要した。米や家電、衣類などは木曽川畔に降りて五月橋を渡り瑞浪市の日吉町で買い求めた。時には20㎏のプロパンボンベを担いで上がることもあった。それが、無理なら飯地の馬方さんに頼み馬の背に乗せて行き来した。
石垣地帯を過ぎ、古道は消えた。折り重なる倒木と小規模な土砂崩壊。想定できるコースを進むと踏み跡が見つかり、すぐまた消滅。その繰り返しの末に木曾川畔の旧国道に出た。往路に見た纐纈J家跡より100mほど東だった。
FK夫人家は1973年に川平を去り、平坦部の南地区に移住し今に至るが、その約10年後までには他の12戸すべてが離村し川平は無人となった。前述の、柘植建蔵氏はこう解釈する。農家たちの生活を支えてきた養蚕やコンニャクイモの価格が暴落したことが離村を促した。さらに、車が通れる道路は最北部の平坦地まで、以南は歩くほかない不便さも響いたのだろう。車社会の急速な進行は山地から人々を追い出す要因となったと私は推測する。川平と同じような全国の奥地山間集落は同時期にすべて消えたのだろう。
そうした山地住民の離村は人々の生活向上や幸福健康の増進のためには当然の成り行きだろう。ただ、奥地山間での苦労多い生活の記憶は現代や後世の人々にとっても大切な教訓となるように思う。苦しい労働をいかに乗り越えたのか。近隣住民との協同協調をどう築いたのか。それが、消え去ってしまうのは悲しい。
川平道から旧国道を戻る際、木々の間に五月橋が見えた(写真⑥)。現丸山ダムが出来た際、1954年に開通した鉄橋である。端正で麗しい姿。何度見ても見飽きない。いま建設中の新丸山ダム工事に伴い、この橋が新しい位置に付け変わるという話を聞いた。必要性などから信じられないことだ。今後、事実かどうか調べてみたい。完
発信:4/23
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