大垣山岳協会

中ア、南アの展望台・戸倉山 2022.03.13

戸倉山

【 月例山行 】 戸倉山 ( 1680.7m Ⅰ等△ ) 丹生 統司

 2022年3月の月例山行は竹森せい子Lの下で中央アルプスと南アルプスの中間にある戸倉山で行われた。二つのアルプスが眺められるとの期待が有ったが当日は雲が低くて霞んでおり、その景色を見ることは出来なかった。西峰山頂でランチタイムを過ごしたが南斜面を吹き抜ける風が既に暖かかった。穏やかな日差しの下で近い春を感じた山行だった。

<ルート図>
  • 日程:2022年3月13日(日) 晴れ
  • 参加者:L.竹森せ、SL.丹生統、安藤正、尾内順、大谷早、小倉繁、金光鏡、柴田悦、清水友、杉本眞、林 旬、藤井利、藤井真、宮川祐、宮澤健、三輪唯、山本知
  • 行程:戸倉キャンプ場9:00-五合目10:50-金明水11:15-戸倉山西峰11:50-戸倉山東峰12:00-戸倉山西峰12:30~13:30-戸倉キャンプ場14:40
  • 地理院地図 2.5万図:市野瀬・信濃溝口

 キャンプ場の駐車地を出るや路面は完全な氷、踏まれた雪が昼の暖かさで溶けた後、夜の冷え込みで氷化したのだろう。鈴鹿など暖かい地方で湿雪の多い地域によくある光景だ。

 登山道も完全に氷化しておりリーダーは軽アイゼン装着を早くも指示した。

 体調不良でしばらく山から遠ざかっていた仲間が帰って来た。「しばらくぶり」「おかえり」仲間の復帰を皆で喜んだ。

 油断が出来ない!落ち葉の上を歩いていたら突然滑った、下に氷が隠されていたからだ。油断大敵。帰りの車に乗せてもらえるのか心配でならなかった。

 尾根の下部には白樺が多かったが8合目を過ぎてからはダケカンバが目立った。

 斜面には本格的に雪が出て来た、凍結しており油断できない。早いリーダーの軽アイゼン装着指示の決断は正解だった。

 九十九折の斜面を登る。湿雪が凍結しておりスリップすれば斜面を何処までも滑って行きそうだ。

 みはらしの丘で休息タイム、話題の中心はいつもシゲさん、彼が居るといつも場が和む。

 休憩所の東屋、屋根裏やテーブルの下に大鍋が幾つも有った。傍に「金明水」の水場も有ってコロナが流行る前は懇親の場を提供したのだろう。

 9合目を過ぎると雪が深くなり途切れなくなった。雪が柔らかくなり時々15㎝ほど踏み抜く箇所が多くなり歩き辛い。病み上がりAさんの頑張りを見て辛抱した。

 西峰到着、山座同定の看板によれば北アルプスの白馬岳から槍が岳、穂高、乗鞍が見えて、西側正面に中央アルプス木曽駒ケ岳、宝剣岳より空木岳が。また東方向には甲斐駒ヶ岳から仙丈ケ岳、北岳、赤石岳迄一望できるはずであったが雲が低く霞んで見えなかった。

 山頂には不動明王が睨みを効かせていた。

 西峰の傍には避難小屋が有った。

 最高点の東峰へは最初、峰下をトラバースしていた、これが踏み抜きが多く歩き辛かった。鞍部からは峰を真っ直ぐ山頂目指してトレースが有った。

 山頂は東方向の眺望が確保されていたが雲が垂れて鋸岳と甲斐駒ヶ岳の裾野が見えていた。山頂には十蔵薬師如来の御堂が有ったそうで、奈良東大寺大仏造立者・大僧正行基が手彫りの如来像を安置したのが始まりと由緒書きは伝える。左手に薬壺(やっこ)を持つ薬師如来坐像の威厳に会員が小さく見えるのは気のせいか。

 Ⅰ等△、点名・戸倉山

 帰りに駒ケ根市文化財の江戸後期建築、旧木下家の住宅(安政時代1854~59年頃築)を見学した。山裾を削って造成した屋敷に茅葺の母屋と土蔵と物置・便所を配置して庭と坂道の石垣は野面積みであった。屋敷より低い敷地に水車小屋が有り川の上流から導水していた。往時は裕福な農家だったと思われる。子供の頃の田舎の風景を思い出した。

 戸倉山西峰山頂の山座同定看板には甲斐駒ヶ岳を東駒ケ岳と記してあった。伊那地方には東西の駒ケ岳があり東の駒ケ岳を甲斐駒ヶ岳、西の駒ケ岳を木曽駒ケ岳と区別して呼んだという説がある。しかし昭和48年3月鋸岳から甲斐駒ヶ岳を周回しての帰り、一夜の宿をお願いした高遠湖上流の山室鉱泉の女主人は「甲斐駒とは口が曲がっても言いません。ここでは東駒と呼びます」と言っていた。境界にある山を片方の国名のみを冠した山名は許せなかったのだろう。ふと在りし日の会話を思い出した。完


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