大垣山岳協会

弘法穴実見記 2017.11.04

弘法穴

【 個人山行 】 門入 弘法穴ここにあり 鈴木正昭

 旧徳山村の山中に探し求めていた弘法穴に三回目の正直で到達できた。60年ほど前まで実際に採掘された水銀鉱だが近年、その場所は不明になっていた。急峻な山の斜面にある小振りな穴入口から中に入ると、細い坑道が上と下に延びていた。なんの変哲もないイモの貯蔵穴のような様相である。何年も経てば、土砂に埋もれて消え去るだろう。でも、私たちの踏査実現により、山の歴史民俗を物語る一つの現場が後世に伝わる望みが開けた。さわやかな達成感を覚えた。

  • 日程:2017年11月4日(土)
  • 参加者:鈴木正 同行6名
  • 行程:門入・泉山荘10:20⇒10:40門入林道降り口→西谷→10:50茂津谷分岐→11:20岩穴谷出合→12:00弘法穴1:15→1:45茂津谷出合→2:25門入林道⇒2:50泉山荘
  • 地理院地図 2.5万図:美濃徳山・広野

 私が弘法穴に最初に向ったのは2015年9月のこと。長年、お付き合いしている門入(岐阜県揖斐川町)の旧住民の泉さん(82)に、穴の所在を確かめに行かないか、と誘われたのだ。揖斐川上流の西谷から茂津谷に入り、泉さんが想定した枝谷の岩穴谷を遡行して探したが失敗。16年10月には所属する大垣山岳協会の仲間、衣斐さんらとの再挑戦もダメだった。だが、今年9月2日に泉さん、衣斐さんらの挑戦で願いがかなった。やはり、岩穴谷を約70m上がった左側の標高610mの斜面で穴の入口を見つけた。15年9月の初挑戦から5回目で大願成就した。今回は穴の精査のための踏査に私と旧友、谷山さんに声が掛かった。

 前夜、泉山荘に宿泊した泉さんと我ら2人、朝ホハレ峠から到着した衣斐さんら4人の7人は小雨がふるなかを沢装備、雨具をつけて出発した。数日来の大雨で茂津谷は相当な増水。体ごと流されないようにふんばる。岩穴谷も水しぶきの白い流れが広がる。やがて、小さな沢との分岐に到達(写真①=弘法穴は中央上部の斜面にある)。

(写真①)

 左側枝沢を少し上がり、右上方に上る。傾斜はかなりきつく、細い低木や根をつかみ体を引き揚げて急登するうちに幅3mほどのテラス状の空き地に上がった。斜面に向って小さな横穴が口を開けていた(写真②)。幅約2m、高さ0.8m。人が口を開けたような形状だ。

(写真②)

 穴の中に入ると幅5.5m、奥行き3.2m、高さ2.4mの空地があり、左側奥に岩の柱状の仕切りがある。右側には日比さん(注参照)が掘ったと言われる小さな穴が3mほど延びていた。左側の坑道に入ると4.6m先に真下に降りる縦穴坑道と水平に向う坑道とに別れる。縦穴は1.9m先、水平坑道は5.3m先まで確認できたが、その先は危険が伴うので進むのはあきらめた。(写真③=左側坑道に入ってすぐの位置から)

(写真③)

 坑道は往古からあった部分と日比さんが掘削した分との見分けは判然としない。天井には無数の小さなコウモリがぶら下がる。時に猛速で飛び回り頭にぶつかってくる(写真④)。彼らの糞なのか、地表には黒い粘着性の汚泥が堆積していた。

(写真④)

 弘法穴の位置は岩穴谷右岸上部50mほどになるが、過去3回の踏査で岩穴谷を遡行したにもかかわらず、見逃した。樹木の繁茂やすぐ下にある別のテラスで隠されていたのだ。9月2日の踏査では一帯の斜面を手分けして探すうちに、泉さんの知友、柳さんが発見したのだという。全くの偶然だという。

 泉さんは念願を果たして、喜びと幸せに満ちている。彼は試掘中の日比さんに誘われ2度ほど弘法穴を訪れている。日比さんは5,6年間試掘を続けたが、昭和31年(1956)の門入大火で宿泊先の建物が焼失したのを契機に門入を去ったという。徳山ダムの出現で廃村となった門入に今も足繁く通う泉さんが弘法穴再見を喜ぶ心境はよく分かる。日比さん試掘のころ、村人は穴への歩道整備に協力し、しばしば見学に穴を訪れていた。数百年の間、先祖たちが暮らし続けた門入の暮らしのシンボルの一つが弘法穴だろう。それが人々の記憶から消え去るのは耐え難いことに違いない。

 泉さんとはやや違う角度だが、私にとってもこの上ない喜びをいただいた。険阻難薮の山中を歩き回り、誰もほとんど見たこともない自然、景観、文物を探り当てた時の高揚と充実感。過去何回かそうした経験を得ている。発見物が仮にその分野においてさしたる価値を持たないものでも構わない。難儀した過程の結果、ささやかな新発見を得る。私にとって登山という行為はそれなしには成立しない。それが、面白くてたまらないことを知った探査山行だった。

 知りたいことが残る。町議現職の日比さんがなぜ、遠い山中にある説話上の穴にやってきたのかだ。本格的な鉱脈を掘り当て、一攫千金を狙ったのか、弘法大師説話など中世の鉱業史に見せられたのか。少し調べてみたが、本人(恐らく存命されていないだろうが)の近縁者に辿り着けていない。日比さんは弘法穴で金銭価値のある鉱石を掘り出せたのか。泉さんは恐らく試掘段階を出ることはなかった、と推定している。

◆参照
<弘法穴>弘法大師が開いたという説話のある水銀鉱山跡。鉱業史学者の矢嶋澄策氏が1952年続いて54年に大塚寅雄氏が現地調査し、採取試料から高濃度の水銀を確認した。古くから小規模に採掘されていたようだ。近年では岐阜県養老町議の日比治一さんがこの穴で試掘を5・6年間続けた。彼は門入に空き家を借りて、地元の3人を雇って穴に通ったという。穴への道は茂津谷沿いではなく、同谷分岐から尾根沿いにトラバースして穴に至る整備された鉱山歩道を往来した。この道はやぶの下に消滅した。

◆注 弘法穴のある谷を岩穴谷としたが、「徳山の地名」(水資源機構刊)は青実洞(あおみがほら)と記載、岩穴谷はその二本奥の枝谷の名としている。ここでは泉さんほか旧住民の何人かの説明を尊重した。

最初の写真2枚は衣斐さん撮影。

<ルート図>

コメント