大垣山岳協会

門入・弘法穴探訪記 2015.09.28

弘法穴

【 個人山行 】 門入・弘法穴探訪記 鈴木 正昭

 徳山ダム(岐阜県揖斐川町)の出現で、消えた門入集落の奥山に弘法穴と呼ばれる水銀鉱山跡がある。説話上の遺跡だが、戦後間もないころまで実際に試掘されていた。だが、今ではその位置さえ定かではない。門入の歴史民俗の継承を願う旧住民の泉末廣さんに誘われ、弘法穴の踏査に同行した。ダムに注ぐ谷を遡り探したが、見つからなかった。50余年の歳月と住民不在が歴史を消そうとしている。

  • 日程:2015年9月28日(月)
  • 参加者:鈴木正、他2名
  • 行程:門入泉氏山荘8:20→門入林道降下口9:10→西谷川河原9:25→9:35茂津(もづ)谷出合→青実洞(アオミガホラ)出合10:15→左岸尾根高巻き→青実洞出合11:10→730m引き返し地点11:40~12:20→青実洞出合2:15→茂津谷出合2:40→林道合流3:0
  • 地理院地図 2.5万図:広野、美濃川上

 門入は昔、「門丹生」と書かれたとする歴史資料があるごとく、丹生すなわち水銀朱(朱砂)の産地だったようだ。だが、朱砂生産を語る昔の古文書は何一つ残ってー㎞離れた奥山に2箇所残っていた。一つは「蝙蝠穴」と呼ばれ、実際に20年ほど前まで岐阜県内の若森という人が採掘していた。

 弘法大師が濡れた衣を木にかけて乾かしたという説話があり、弘法榧の木と呼ばれた。もう一つの「弘法穴」でも50年ほど前まで同じ県内の日比という人が採掘していた。場所はダムに注ぐ西谷川の支流、茂津谷を遡りその枝谷を200~300m上がったところだと旧住民は言う。毎夏訪問、滞在させてもらっている泉さんの山荘にホハレ峠から歩いて入ったのは27日の昼。夜の歓談の中で、泉さんから弘法穴を見に行かないか、と予想外のお誘い。

 翌朝、同行の級友T君と3人で、沢登り衣装を付けて門入林道を進む。林道からスギ林の中の薄い踏み跡を下り、西谷川と茂津谷の分岐点に降り立つ。茂津谷河口の右側に昔、水田があり石垣がまだ残っている。泉さんによると、その一画に大きなカヤの木があった(写真①=右側の平地)。

写真①

 緩くて広い谷沿いに続く薄い踏み跡をたどる。何度も渡渉する。水は冷たくなくて気持ちのよい温度だ。泉さんは昭和30年ごろ、2度ほど弘法穴を訪れている。採掘していた日比さんに誘われ、見学した。その際、通ったのは、茂津谷遡行コースではなく、茂津谷をわずかに進んでから右岸尾根に上がり右岸斜面を水平に進むコースを歩いた。そこには日比さんや地区住民が造った立派な歩道(鉱山道)があった。この道は今や完全に廃道となり、深いやぶの下に消えた。

 やむなく、茂津谷の枝谷から迫ることにする。ただ、これが難関だった。頼りにしたのは「徳山の地名」(水資源機構刊)だ。同書には「水銀鉱山跡の弘法穴のある洞」として「岩穴谷」が挙げられている。これを目指すのだが、谷が地図上のどの谷を言うのか不明だ。山や谷を知悉する泉さんが先導し、小振りな枝谷に入った。泉さんら2人は沢沿いに、私は枝尾根中腹をトラバースして進み、620m辺りで谷筋に降りて合流。この上で小滝(写真②はその一つ)が幾つも現われ、5mほどの滝を左側から巻いて広い平坦な沢に戻った(写真③)

写真②
写真③

 標高約730m。泉さんはここら当たりだと思うという。弘法穴は庇状の出っ張りのある岩壁で中央に人の入れるほどの穴があるという。手分けして一帯を探す。私は左岸側の斜面を歩き回るが、見つからず。やがて、谷上部を探った泉さんが降りてきたが、やはり小振りな岩しかなかったという。諦めて下山を決めた。谷の降下は危険なので、右岸斜面をトラバースし、右岸尾根を下った。トラバースでは泥つき急斜面に苦労した。フェルト底の沢靴のままだから斜面への蹴りこみができず、危なかった。鋲付き地下足袋の泉さんはスイスイと、軽快に下る。当年80歳。長年、山仕事で鍛えた足と技は健在だった。

 私たちが遡った枝沢はてっきり岩穴谷だと思っていた。だが、後にT君から所持したGPSの軌跡では「青実洞」だったと連絡があった。目指した岩穴谷より2本下流の谷であった。つまり、岩穴谷に入るのを間違えて青実洞に入ったという単純なミスだったのか。

 泉さんの谷の選択も大事にしたい気もある。とは言え、それは「徳山の地名」の記述を否定することになる。泉さんに聞くと、「徳山の地名」はダムによる廃村を前に水資源機構が泉さんら旧住民らの記憶や見解を収録したもの。谷の位置や名称について間違いや錯誤が含まれる可能性がある、という。その記述が不正確だとすると、岩穴谷の位置そのものが定まらない。

 弘法穴については、鉱業史学者の矢嶋澄策氏が1952年続いて54年に大塚寅雄氏がに現地調査し、採取試料から高濃度の水銀を確認している。

 多くの人の出入りがあったのに、その位置を知る資料が見当たらない。泉さんほか、現場を見届けた数人の記憶も不鮮明である。最後に期待したのが、日比さんが取得したかもしれぬ国の鉱業権関係の記録だ。そこで、該当する鉱業権設定のデータを求めて、中部経済産業局鉱業課に出かけた。茂津谷一帯ではただ一つ鉱業権(試掘権)が登録されていた。谷の左岸側の斜面の86㌶、目標は「金銀銅、硫化鉄、水銀鉱(朱砂鉱」だった。出願人は岐阜市在住のYさんほか、4人。昭和59年末に登録し、丸6年後に抹消している。そこには日比さんの名はなかった。

 不思議なのは、上記の試掘権は日比さんが採掘を止めてから20年後のものだ。泉さんは日比さんの後、別の人が採掘したと聞いたことはない、という。

<水銀鉱と弘法大師 >矢嶋澄策博士の論文によると、水銀鉱の産地とされる丹生(にゅう・にふ)の名を持つ地には弘法大師の説話が付随することが多い。大師が留学先の中国の進んだ科学技術を日本に持ち帰った業績の一つとして水銀採掘を推定したものだろう。三重の丹生鉱山には大師が滞在して直接水銀採掘を指導したと伝えられる。また大師の衣鉢を継いだ、真言系山伏が水銀鉱などの地下資源の開発に関わったことも説話の背景にあるようだ。

<水銀鉱と弘法大師>
矢嶋澄策博士の論文によると、水銀鉱の産地とされる丹生(にゅう・にふ)の名を持つ地には弘法大師の説話が付随することが多い。大師が留学先の中国の進んだ科学技術を日本に持ち帰った業績の一つとして水銀採掘を推定したものだろう。三重の丹生鉱山には大師が滞在して直接水銀採掘を指導したと伝えられる。また大師の衣鉢を継いだ、真言系山伏が水銀鉱などの地下資源の開発に関わったことも説話の背景にあるようだ。

<ルート図>

発信:10/09

コメント