【 週日山行 】 天神山 ( 340m △なし ) ~ 女夫山 ( 340m △なし ) ~ 城山 ( 462.3m Ⅲ等△ )
関市上之保 NT
令和5年最後の週日山行は関市上之保の天神山から女夫山を経由して城山を往復した。当日は生憎の曇り空で御嶽山を眺めることは出来なかったが各々の山頂で木彫りの造形芸術に癒された一日となった。上写真は麓から見た城山462mである。
- 日程:2023年12月20日(水) 曇り後一時小雨
- 参加者:L.FT、AM、IY、OS、KT、TS、NT、MK、RH
- 行程:駐車地9:09-天神山9:49-女夫山10:11-松本峠10:49-城山11:50~12:44-松本峠13::30 駐車地14:50
- 地理院地図 2.5万図:美濃川合
上之保小学校前の県道を挟んだ南側に登山者用駐車場があり有難く利用させていただいた。準備中に津保川を眺めると大きなマスだろうか5~6匹泳いでいた。
学校横の天神神社鳥居横に城山までのルート案内図と城山登頂者への上之保ほほえみの湯温泉割引、天神山他の山頂チェーンソーアート制作の令和4年11月21日付の岐阜新聞記事を掲載した看板があった。入浴準備万端して来たが水曜日の今日はお休みであった。
高度で50m登ると奥の院拝殿が有った。信心深い我が会のお歴々は本日の登頂と無事の下山、帰宅を祈って早速手を合わせた。
天神山と女夫山との分岐へ着いた。此処から東へ200m行った340mの高みが地形図に山名記載はないが天神山である。
山頂の東端が切り開かれて展望所となっていた。令和5年の干支に合わせたのか兎のチェーンソーアートが広場の中央にあった。
天神山から天神分岐へ戻り女夫山を目指す、ヒノキの植林帯につけられた道を一旦下って30m登り返すと松本峠との分岐であった。
天神山、女夫山、城山の山頂を飾る造形アートは下之保在住の彫哲(丹羽哲士)さんというチェーンソーアート造形家で全国大会を2018,19年と2連覇しているそうだ。天神山から女夫山へ続く芸術街道には切り株に沢山のお遊びアートが残されていた。ふと子供の頃に地面に棒きれで絵描きをしたことを思い出す。2点作品を紹介する。
夫婦山の造形アートはカエルで「ぶじにカエル」の文字が刻まれていた。天神山から至るこの道は関市上之保の森林組合やスポーツ愛好家が「地域おこし」として整備したようである。「女夫山」と呼ばれる所以「男や女」などの山名由来の説明などが記された看板が有ればありがたいのであるが、
城山を目指して松本峠へ向かい斜面を下る。途中には御嶽山ビュースポットが有って植林帯に眺望が確保されていたが冬の厚い雲に閉ざされて見ることが出来ない。
松本峠「元禄二年七月」と彫られた古い地蔵を囲み松本集落と宮野集落を結ぶ峠越えの生活を想像した。地形図を見れば津保川が大きく蛇行して川沿いの道は何倍も遠回りをさせられる。だが峠越えの山道は昼でも暗く心細くて迷信が実しやかに信じられていた時代、この地蔵に無事を祈願したのだろう。実は先の三角点踏査でこのルートを担当した「IY」氏と一緒にKM、NTで令和2年5月に登っているのだが全く記憶にない。
足元の道は俄かに傾斜が増して岩が多く険しくなって尾根直下をトラバースしていた。
やはり岩場となってロープがセットされており右から回り込んだ。今日は1姫を除いて70歳以上の高齢者集団である一歩一歩を安全確実にを合言葉に通過した。
岩場を抜けると細い岩尾根となって御嶽山の展望台となっていたが厚い冬雲が覆っていた。雲が切れれば写真のような冠雪の御嶽山を見られたのに残念である。
城山へは最後の高度60mが土塁を思わせるような急斜面となっていた。有難いプラ階段の助けを借りて直登したが戦国時代の草鞋なら到底登れる斜面ではない。
山頂近くの斜面の立ち木はやり過ぎだろうと思われるほど切り倒されていた。森林組合と地元区民が地域おこしで行ったこと未だ先の考えや計画があるのだろう。折しもこの時、雨粒が落ちてきて慌てさせられる、NHKの電波塔めがけて急いだ。
山頂は人工的に手を加えられた水平台地となっており確かに嘗て建造物が有ったと思われた。だが周りに「城山」と呼ばれる所以などの説明書きは無かった。代わりにNHKのアンテナ塔と登山靴を履いた熊の造形芸術が山頂を飾っていた。
この日はFT Lの誕生日だそうで他にも12月生まれが4名、小瓶のシャンペンが準備されていた。この頃、山頂での乾杯が続いており雰囲気は最高、カンパ~イ。
三角点は丸い金属製で三等三角点と刻印されコンクリート柱の頭部に埋め込まれていた。山頂滞在中も雨は小粒でポツポツ落ちていたがシンボルツリーの下で過ごし雨具は着なかった。この頃、当会の山頂儀式、万歳三唱を久しくしておらず下山前にマドンナHちゃんに音頭をお願いした。麓のほほえみ温泉まで届くほどの大声でバンザーイをした。
『美濃の三角点全点踏査の記録(Ⅰ)』によれば令和2年5月29日間違いなくこの山頂に立っている。担当はIY、同行はKM、NTである。本日参加のKT氏が大きな堰堤、堰堤と繰り返しNT、IYが登っていると口酸っぱく言う。確かに記録を読めば「要塞のような堰堤」を目指してと記している。KT氏には「記憶にないなー」「え~そうかな~」などとつれない返事で申し訳なかった、お詫びする。ただ、担当者のIY氏も覚えていなくて少しだが救われた。物忘れを齢のせいにして今年も暮れようとしている。来年はまた一つ齢を重ね物忘れが増えそうだ。完
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