【 一般山行 】 烏帽子岳( 865m Ⅲ等△ )、狗留孫岳( 772m △なし ) 大垣市上石津町細野 NT
今年の1月に同じコースを歩いた。県境を忠実に歩く計画だったが円弧を描いて急下降する尾根を踏み外し真っ直ぐ下降した。今回は正確にと対策して挑んだがまたも踏み外した。山登りの奥深さを改めて知らされた山行となった。だが収穫もあった、壬申の乱のおり後の持統天皇が輿に乗って越えたという輿越峠の阿弥陀如来像を撮影することが出来た。

- 日程:2025年3月30日(日) 天候 曇り一時小雪
- 参加者:L.TK、IK、OS、OM、GY、ST、ST、ST、NY、NT、FT、MY、MK、MH、YH
- 行程:細野登山口7:53-第4展望台9:05-烏帽子岳9:35-狗留孫岳10:17~10:59-輿越峠12:40-細野登山口13:02
- 地理院地図2.5万図:篠立
今日の細野登山口は我々のみで貸し切り、北面のせいか梅の花が未だ二分咲きであった。

尾根へ上がりきると北風が冷たかった。牧田川対岸のソノドや猿登の尾根は雪雲に覆われて今にもこちらに向かって来そうと思う矢先にパラパラと霰が落ちて来た。

第4展望台で休息した。藤原町古田の民家の先に中里ダムが見えている。その北に水嶺湖が見えているはずだが確認出来ない。重なって一体に見えているのかもしれない。

霰のような小粒の雪が舞うなか山頂へは大岩展望コースを選択した。数日前に登山道を整備したようで土が柔らかくふかふかで雨が降ると直ぐ流されそうで心配になった。

トラバースが終わり急傾斜を九十九折に登るとヒノキの天然木が迎えてくれた。そこが牧田川沿いの集落を見下ろす大岩展望台だった。霊仙やソノド方向は冬に戻ったような雪雲に覆われこちらへもパラパラ来ていた。

山頂下で大岩コースと合流した。斜面に雪渓が残っていたが3日もすればなくなりそうなほど薄く小さいが山頂近くの雰囲気は醸し出していた。

寒い山頂だった。我々の外に誰も居らず寂しい山頂でもあった。南に狗留孫岳の反射板が見えていたが時折冷たい雪雲が流れ景色を遮った。写真撮影を終えるや誰かが早く発とうと言った。南の稜線に入れば冷たい北風から逃れそうな期待が有っての事だった。

時山バンガロー登山道と三国岳分岐の最高点900mを過ぎると北風から逃れるように中電巡視路のプラ階段を駆け下った。方向確認も省略し一目散、勝手知ったる山である。

アセビの花が開いていたが通常の白色でなく赤みがかっていた。所々登山道をアセビの枝が覆って足元を隠していたが小枝を分け枝を踏んで引っ掛からぬように歩いた。

今日は久方ぶりにご一緒する方もいて体調を心配したが全員順調に歩き反射板が見る見る近くなった。絶えず動いていないと寒いせいも有ったかもしれない。

狗留孫岳山頂反射板に到着、西に見覚えのある三国岳の双耳峰が見えていた。三国岳右の尾根続きにP810mと奥にダイラの頭803m、最奥に鍋尻山も見えていた。

山頂には山名板が二ツ有った。「いなべ市」製作の案内板には「狗留孫岳」と、出所不明の手造りと思われるものは「狗留尊山」と書いていた。当然、公の「いなべ市」山名を信ずるが山名板は山頂に一ツで充分、私的なものを山に残す行為は慎んで欲しいものだ。

アセビの木を風除けにしてランチタイムを過ごしたが寒くて時間を早く繰り上げようという声が上がり予定時間を待たず出発することにした。

県境尾根は狗留孫岳から東へ向かい標高700m辺りで大きく円弧を描いて北へ向きを変え300m下降する。尾根が明瞭でないカーブした傾斜地をコンパスのみでの下降は難しい。実は1月に訪れた際は直線的に下ってしまった。今回は高度計高度を狗留孫岳で全員合わせた。標高720mからは100m下る毎にコンパスの進路を調節して臨もうと打ち合わせた。

古田分岐を過ぎると傾斜地を一斉に下った。コンパス以外に測量で使用された図根多角点も重要視して見落とさないように注意した。気掛かりは古田分岐を過ぎヤブを潜り終えて左上に尾根らしきものを見たような、それに先日Tさん達が偵察に訪れた際に残したという目印を一ツも回収していない。だが図根多角点が下へ続いており疑わなかった。

急傾斜を100~150mほど下った所で「大垣市市行造林」の杭が図根多角点と並列し立っており間違いなく県境を下っていると確信した。ところが誰かが開いた「GPS」を見て唖然とした。この1月に下った同じルート上に居たのである。県境から150mほど三重県に進入して下っている。何が何やら、この杭は何なんだ。岐阜側は人工林、三重側は疎林、その間の切り開きを下っている。コンパスの指針もそれほど違っていないはずが・・・

標高430mでカーブして来た県境と合うことは先刻承知で有る。ただ大垣市の市行造林が三重県側に何故150mも食い込んで存在しているのか、頭の中の整理がつかない。

これから歩く県境は尾根の峰が明瞭で直線的であり特段の問題はない。今回は「壬申の乱」の折りに大海人皇子(後の天武天皇)の后(後の持統天皇)が藤原町古田から輿に乗って美濃細野へ越えたという峠を見つけカメラに収めるのも目的である。県境尾根はやがて藤原町古田からの遊歩道となった。地形図で標高281mの独立標高点辺りが「お輿峠」と見当をつけて捜したが見つからず、皆を待たせて北進すること5分ほどで細野と古田との峠に出た。そこには石仏2体が安置されていた。雀躍したいほど高揚し皆を呼びに駆け戻った。

皇太弟・大海人皇子は兄の天智天皇に病床に呼ばれ皇位継承を打診された。だが彼の異図を見透かした大海人は天智の皇子である大友に辞譲、自らは剃髪、出家して吉野へ籠った。天智天皇が崩御した翌年の西暦672年、卑母を持つ出自に皇位継承が不利とみた大友皇子は山陵造営を名目に各地の兵を徴発動員した。それを察した大海人皇子は吉野を脱出、伊賀、伊勢を経て鈴鹿古田から峠を越えて美濃不和郡野上に行宮を置き本営とした。この峠越えを大海人皇子は馬で、后の皇女は輿に乗って越えたので「輿越峠」と後の人は呼んだ。

石仏は阿弥陀如来とのことで室町期製作らしい、以後の鈴鹿と美濃の往来を見守って来た。

古代の天下分け目、壬申の乱は不和郡和?(関ケ原を古代には「わざみ」と言った)で開戦となり1350年後の今も生々しい黒血川の名が残る。美濃、尾張の強兵動員に成功した大海人軍は和?で大友軍を潰走させ瀬田の唐橋でも大勝利、近江大津宮へ攻め入り大友皇子を自害させた。大海人皇子は天武天皇となり大和飛鳥に宮を戻し律令体制の礎を築いた。
輿越峠からの道は細野遊歩道と名付けられ軽トラックが通れるほど広く整備され熊坂谷へ向かい下っていた。降りたところにポツンと一軒家が有って「メダカの学校」の看板が掛けられておりメダカの養魚場と思われた。熊坂谷に架かる橋を渡ると舗装道路となって坂道を上がると見慣れた田畑が広がる細野集落の登山口だった。

県境の市行造林(しこうぞうりん)の杭について大垣市役所農林課に問合せた。「杭は平成22年頃の測量のものと思われる」「精度については良くない」と言われた。市行造林は集落住民の森林保護、公益的機能の確保を目的に市が所有者に変わって造林を行うもので上石津町時代のものを大垣市が引き継いだ。三重県側に越境して市行造林が存在している事に関しては上石津町時代のものを引き継いだのであり詳細はわからない。標高670mから標高430mの間が大きく円弧を描いて岐阜側に食い込んでいる件に関しても分らない。境界をめぐり諍いが有ったとの情報は得ていない、とのことだった。忙しい業務中に山屋の遊びの付き合などしていられないと察した。何れもう一度踏み外した県境を歩きたいと思う。三度目の正直となるか?完
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