【 個人山行 】 後山からパール白川山野(岐阜県白川町赤河) SM
岐阜県白川町赤河の後山(うしろやま)から道ない林内の斜面を登り、廃別荘地帯に上がり、下山では西側を大きく回る長い林道を南下して戻った。林内登りでは岩を包む薄緑のコケに惹きこまれ、長い周回林道では多様な樹木の姿を楽しんだ。最後に、標高500mの緩い斜面に民家が点在する後山集落の静穏かつ麗しい姿にうっとりゴール。(写真①=右後方は笠置山、左奥にかすかに見えるは恵那山)

- 日程:2025年3月21日(日)
- 参加者:SM(単独)
- 行程:自宅(春日井市藤山台)21日5:55⇒尾張パークウェイ⇒国道41号⇒白川口⇒県道68号(恵那白川線)⇒古田口⇒林道後山西山線→赤河・後山集会所横に駐車
駐車地(標高約500m)出発8:30→9:00林内取り付き→9:25荒堀り作業道出合→9:30美麗コケ帯→10:30パール白川別荘跡道路出合→別荘跡最西部を散策→12:30別荘地離脱→やぶ尾根下り1:00林道後山西山線出合→1:30方向ミス解消→林道南下→3:10後山最上部→集落内で歓談→4:10駐車地 - 地理院地図 2.5万図:切井
「パール白川」の廃別荘帯を訪れたのは約2年前の2回。今回はなお見ていない最西部の別荘跡に入りそこから、西側にやぶ尾根を下り、北の黒川地区から後山地区に至る長い林道後山西山線を歩いて帰還する計画だ。駐車地から歩き始めようとしたとき、1台の軽トラが通りがかった。道を聞くと、乗せて行ってやるとのお言葉。後山に住むHさん。駐車地から300mほど西の墓地から別荘地跡への斜面に取り付く。入口に集落の墓地があった。(写真②)碑文の読み取れないお地蔵さまに手を合わせて、後のササやぶに入る。

地図には道の記載のない緩い斜面を登る。背の低いスギ、ヒノキの人工林内。細い沢筋にそって薄い踏み跡を追う。やがて荒堀の作業道が現れがっかりしたが、すぐ消えて、踏み跡もなくなる。とにかくほぼ真北に向けて斜面を高度300m登れば別荘跡地に達するはずだ。沢筋も踏み跡も全くない緩やかな斜面を快調に登る。
高度約600mで緑の麗しい光景に出合った。大きな岩がたくさん転がる。岩はみな緑のコケで覆われている。ヒノキやスギの上部の葉の色と合わせエメラルドグリーンの世界。(写真③)その真ん中を通り抜けると、雪が出始めた。里の人の話だと、2日前に積雪15ほど降ったという。ここでは2・3㎝ほどか。歩くのに支障にはならない程度だった。

斜度がやや増した人工林の分厚い小尾根を上がると、別荘跡地の外周舗装路に出た。路面には薄い雪の上に車の轍がついていた。この地点は過去2回のパール白川の訪問時に歩いたことがない別荘地最西部だった。別荘建物は中心部よりしっかり原型を留めているようだ。(写真④と⑤)つまり、比較的新しい時代に建ったもののようだ。勿論、建物には人の気配は皆無。出会った人も車もゼロ。わずかな風の音がさわぐ中「青峰苑」の看板のある道路で昼食タイムを取った。


そして、別荘帯最北部への広い舗装路を進む。かなりの旧坂をクネクネと降りる。堅固に見える別荘7,8軒が両脇に建つ。最後らしい建物から別荘内道路から北側の雪の斜面を下り始める。スギ、ヒノキの人工林内の下降。積雪は5㎝ほどで小尾根をしばし下ると幅の広い舗装路に出た。これが、林道後山西山線だと即断してどんどん進む。
ところが、日差しが背中から来ていることに気づく。つまり林道が大きく蛇行している位置で出会った際、反対の北側に曲がってしまったのだ。慌てて引き返した。以前同じような過ちをしたことを思い出した。林道はしっかり舗装されているが、各所で倒木が塞いでいたが、大木はなく、簡単に除去できそうに思えた。
林道の両脇はスギ、ヒノキの人工林が続く。樹木はどんどん育つが出材は一向に進まない。林道のすぐ脇に一本の巨大なスギの木が立っていた。足もとに大きな枯葉の山が出来ていた。私の背の高さほどあった。上から落ちたスギの枯葉の山だった。スギにとって暖かい足袋かもしれないが、要するにほったらかしなのか。(写真⑥)

大きく円を描いて延びる林道を足早に進み、やがて後山集落の最上部に達した。畑を囲む柵から集落中心部が一望できた。(写真①=冒頭の一枚)心に染み入るような懐かしさを覚えしばし立ち止まる。畑の中のあぜ道を下ると女性と老齢男性の3人に出会いお話を伺った。
後山集落は昔から24軒ほどの民家があった。今では20軒ほど。昔、生活を支えてきた林業が出材費用の高騰で利益が出なくなってしまった。若い人は多治見市市街地など下へ下へと働きに出てゆく。集落に残るのは年寄りばかりとなった、と私と同輩のHH氏は言う。同じような悩みを山里で何度も聞いてきた。後山では集落規模を結構、維持できているように思う。
私が下山で歩いた林道後山西山線は後山の人たちには重要な道だった。古くから後山と北方にある黒川地区を結ぶ街道であった。姻戚関係もあった。黒川の女性が後山地区に嫁ぐこともあり、嫁入り道具を積んだ荷車がこの道を行き来したという。私が歩いた際、道路への倒木が数か所あった(写真右=そのうちの一カ所)が、あれは数日前に10㎝ほどの雪が降りその重みで起きたもので、普段は通行可能だと里人はいう。だが、道の重要度は低くなったようだ。少し遠回りすれば、もっと利便性の高い道路があるからだ。完
<パール白川別荘地>
1970年前後に愛知県の不動産業者が開発開業、最盛期には100軒ほどの別荘が実在していた。別荘地ブーム去り廃墟化が進み、6・7年前まで、5・6軒で人が住んで庭仕事をしていたが、今では全くの廃屋高原となった。

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