【 一般山行 】 飯道山 ( 664m Ⅱ△ ) SK
- 日程:2025年3月9日(日) 天候 快晴
- 参加者:L.KT、OS、GM、GY、SK、SM、TS、NY、FT、MY、MT
- 行程:中ノ江駐車場(集合)6:00=蒲生スマートインター=飯道山白髭神社登山口(駐車)8:05-飯道神社8:45-(行場巡り)-飯道神社9:35-飯道山山頂10:00~10:10-杖の権現茶屋休憩所10:15~11:00-飯道神社11:20-登山口11:50=中ノ江駐車場(解散)14:10
- 地理院地図2.5万図:三雲
3月9日(日)、滋賀県甲賀市の飯道山へ、修験道に深い関心を持たれているKリーダーのもと10名で行ってきました。標高こそ664mとそれほど高くない山ですが、山岳信仰の長い歴史を持ち、修験者とともに甲賀忍者も修行をしたといわれる山なので、登山に入る前に、飯道山の歴史を押さえておきたいとおもいます。
飯道山は、山上に飯道神社が鎮座し、明治初年の神仏分離以前は飯道寺があり中世から近世にかけては修験寺院として、大きな勢力を持っていたといいます。飯道神社の本来の祭神は原始山岳信仰の対象である飯道神でしたが、現祭神は後世に熊野修験の影響から勧請されたものと推定される伊弉冊尊・速玉男命・事解男命となっています。
一方、飯道神社の神宮寺である飯道寺は、縁起類などによると、役行者によって開基され、和銅7(714)年に安敬より中興されたと伝えますが、史実としての起源は定かではなく、山麓に近い紫香楽宮の遷都や飯道神社が神階を得たことなどをきっかけに集まってきた優婆塞や沙弥のような山林修行者や、金勝寺に関係する僧らの働きによるものと考えられています。平安時代から鎌倉時代後期にかけての状況は明らかになっていませんが、鎌倉時代後期以降には熊野三山との関係が深まり、嘉元年間(1303年 – 1306年)に熊野の僧行範が熊野修験を伝えたとされます。室町時代以降、飯道寺の多くの坊の中でも、梅本院・岩本院は、真言宗系の「当山派修験正大先達三六カ寺」のひとつに数えられる有力寺院となって、諸国の当山派山伏を支配していたということです。明治初年の神仏分離でいったん廃寺となった後、山麓に天台宗寺院として再興されています。
以上、登山の対象としてはマイナーながら、山岳宗教史の上では大変重要な山です。
今回は、西麓の白髭神社前に駐車し、飯道神社を経て飯道山山頂に立つコースを往復しました。
8:05 飯道神社の鳥居をくぐって登山開始。

スギやヒノキの植林に、モミやマツも交じる木立の中の石段を登高。そのうちに、苔むした石垣などがあらわれてきました。

8:45 山上の鳥居をくぐると、右手の岩の上に役行者の石像があり、その下が本地堂の跡で、今はここに新しいトイレがあります。その奥に、立派な行者堂が残され、かつてはこの堂の前で護摩が焚かれたりしたのでしょう。

真っすぐ進むと、飯道神社に出ますが、まずはリーダーの案内のもと左手の行場巡りのルートに入りました。手書きの案内板によると、天狗の岩、不動の押し分け岩、平等岩、蟻の塔渡り、胎内くぐり、「最大の難所」と続くようです。

天狗の岩という巨岩をこえて、急斜面をへつっていきます。

不動の押し分け岩という岩の間をくぐると、平等岩に出ます。
平等岩というと、大峯山の裏行場のシンボルの岩なので、大峯修験との関わりを感じさせられました。伊吹山にも同じ名前の岩があります。ここの平等岩は鎖でよじ登り、岩の上の鉄の輪に沿って一周でき、クライミングのお試しもできました。

戸隠山の難所として知られる蟻の塔渡りもありました。岩の間をへつりながら抜けていきます。

次は、胎内くぐり。これも大峯の裏行場にもありますが、ここのは相当狭かった。

「最大の難所」は、鎖で岩をよじ登るもので、声を掛け合いながら慎重に鎖につかまります。その上の大岩から笹原を進むと、「東の覗き」に出ました。大峯の表行場には、「西の覗き」がありますから、それを意識した命名なのでしょう。岩の下は断崖です。

以上のような行場を巡り、9:35 飯道神社に戻りました。江戸前期、慶安2(1649)年の再建だそうで、極彩色の立派な建物は重要文化財に指定されています。

神社でもらった案内パンフレットによると、神社から飯道山山頂に向かう途中が、かつての飯道寺の院の跡で、大規模な石垣が残されています。岩本院と梅本院は、当山派の全盛期の「三十六正大先達」で、その後、近世に入って修験は衰退し江戸期には「十二正大先達」となりますが、これにも両院とも入っているので、修験において飯道山がいかに重要な拠点であったかがしのばれます。

10:00 二等三角点基準点名「飯道山」のある山頂に到着。

山頂からは、手前に近江富士とも呼ばれる三上山(432m)、そして琵琶湖の向こうに蓬莱山(1,174m)、武奈ヶ岳(1,214m)など比良山地の山々が白い稜線を連ねている展望が得られました。

南東方向に下山。不思議に枝分かれしたコウヤマキが群生していました。

途中東に展望が開ける場所があり、鈴鹿山脈の山々の全容が眺められました。鈴鹿山脈の場合、武平峠の南に尖った頭を見せる鎌ヶ岳(1,161m)が、山座同定のポイントになります。

木喰応其の入定窟というのもありました。木喰応其というと、高野山の木食僧で、豊臣秀吉と良好な関係を作り、戦国期に荒廃した高野山を再興し、方広寺建設をはじめ諸々の寺社の整備にあたった、土木にたけた僧で、様々な交渉事にもあたっています。しかし、秀吉亡き後は、なかなかむつかしい立場になったようで、ここ飯道寺に隠棲し一生を終えたといいます。

山中には石仏をはじめ、石造物もいろいろ残され、往時をしのびながら下山しました。11:50には、登山口に到着と、コンパクトでしたが、歴史をしのびつつスリルも眺望も味わえ、充実した山行でした。
リーダー、ありがとうございました。


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