【 個人山行 】 切井高原 点名・中之坊( 969.31m Ⅳ△ ) SM
50年ほど前、各地で別荘建設ラッシュが起こり、高原がにぎわった。ブームはやがて勢いを失い7.8年前には全滅の憂き目となった。だが、ブームに乗れなかった別送跡地があると聞いて、出かけた。岐阜県白川町切井の標高950mほどの高原。昔、用地が売りに出されたが、実際の別荘はほとんど立たずに終わったのだという。そこに今、どんな光景が見られるか、歩いて見にでかけた。
- 日程:2025年1月19日(日)
- 参加者:SM(単独)
- 行程:自宅(愛知県春日井市)19日5:50⇒尾張パークウェイ⇒国道41号⇒白川口⇒岐阜県道68号⇒切井本郷⇒稲中(とうちゅう)集落墓地で駐車
駐車地出発8:50→9:10林道左折(670m)→9:30林道崩壊地帯→10:45竹製旗竿数本→11:20最上部尾根筋→11:35御嶽神社祠→12:00点名中之坊12:25→南斜面降下→12:40林道出合→1:45林道右折→2:05駐車地 - 地理院地図 2.5万図:切井
2.5万図地理院地図の[切井]を眺めるたびに、図の右上にある林道の網目密集地帯が気になっていた。標高約950mの高原である。同様の地帯は約4㎞西のパール白川という別荘地跡がある。だからここも昔栄えた別荘地だったと推測した。そこを歩いて現況を知りたい、ついでに付近の山に登ろうと、飛騨川水系赤川の支流栃平川沿いの稲中集落奥に車を止めた。
ここは標高630mの高地。路側から南方を眺めると、今車で登って来た切井中心部の家々が白く明るく輝いていた。(写真①)胸の内から活力が湧き出るような気分。最奥の民家の先に集落の墓地があり、その先の林道は薄暗い人工林の中。歩き始めて直ぐ、前方から小型トラクターに材木を積んで降りてきた男性に道のことを尋ねた。「上部に続く林道は健在だが、途中で分岐する枝道がたくさんあるので、本線を外さないように」とのご注意を頂いた。実に大切な教えだった。おかげで、一度も間違えることなく、進む。

歩き出して30分ほどすると、林道は大きく左折し北上する(地図上のA地点)。赤川源流部の左岸尾根に出たのだ。ただ、分厚い樹林で赤川の谷や目指す元別荘跡地の高原などは一切見えない。間もなく林道は荒れ模様。道の中央が沢状にえぐれ、へこみ大きな石ころが転がる(写真②)。猛烈な豪雨がここを流れたのだろう。慎重に前進する。薄かった雪もやがて積雪5㎝ほどになるが、スパッツを付けるほどではない。

A地点から別荘跡地まで標高差は約300mしかないので、斜度はあまりないが、左右に大きく曲がること15回ほど。その都度、方位位置確認を繰り返すので予想外に時間が掛かる。ヒノキの人工林が消えてマツやコナラなどの二次林主体の林内に踏み込み廃屋などないかと、見回すが、何もない。(写真③)

標高900mで道は東方向に向きを変えた。道から外れて東側のササ原に踏み込んでみた。そこに高い竹のポールが立ち上から細いロープが釣り下がっていた。同じポールが5本立っていた。(写真④)別荘宣伝用の旗竿かなと想像する。

林道はやがて北に向きを変え、東西に延びる主稜線上に出た。林道は5㎝ほどの雪に覆われ、両脇のアカマツやサワラなどの針葉樹がすっくと空に向かって空を突く。30mを越す高さと見た。不幸にも曇り空だったが、青空だったら見事だっただろう。(写真⑤)

この雪道を西側に進む。これが、大きなミスであった。後でGPS軌跡を見ると、別荘跡地は主稜線上の道を東に進んだ先にあった。私は別荘用地跡地のごく西側を歩いただけで、西へ西へと向かった。まだ、時間の余裕があったのに別荘地とは反対の方向に向かう。雪の林道は間もなく消えたが、そこに「山頂まで〇分」(〇の文字は消えていた)の木の看板を見つけた。きっと、地図にある点名中之坊(969m)のことだろうと考えてササ原の中の踏み跡を進む。すると10分ほどで広い広場に木製の祠があり、両脇に石像が2体立っていた。(写真⑥)石柱の碑文は消えていた。実は朝、稲中の最奥に住むKHさん(60歳)を訪ねた際、尾根の上に御岳神社があるとお聞きした。切井地区の中央、石木、稲中の3部落が持ち回りで毎年5月の祭礼を催したという。神社広場から北方に御岳山がよく見えたのだが、その後木々が延びて見えなくなり祭りは中断したそうだ。

私も北方をのぞいた。樹木はまばらだったが、曇り空に遮られ御岳は拝謁できなかった。一礼した後、なだらかなササ原の中の薄い踏み跡を進む。少ないが赤布も散見した。登る人が若干いるようだ。やがて直径50mほどの丸い丘の真ん中に白い三角点の木柱が立っていた。(写真⑦)四等三角点中之坊である。丘には樹木はなく、周りに30m余もある背高いアカマツやコナラの木がそびえる。(写真⑧)


ここから折り返して別荘用地中心部を探索する時間的余裕はまだあったのに、その認識を欠いて、帰途を急いだ。往路を戻らず、道のないなだらかな斜面を下りる。途中で2坪ほどの小さな朽ち果てた作業小屋跡に出合った。(写真⑨)昔の人力による林業作業の厳しさを想像した。間もなく、記憶のある往路の林道に出て、その後たくさんの林道分岐をミスなく、駐車地に戻れた。往路で紛らわしい林道分岐点に赤布を付けてきたおかげだろう。

下山後、前出のKIさんに別荘用地についてお聞きした。それによると、小学生のころ、仲間たちと、遊びに行った覚えがる。当時、私の歩いた林道はきれいで車で上部まで行けた。御岳神社から、噴火したとき噴煙を見た覚えがある。また、別の情報では、別荘用地については、地元や半田、大府などの業者が用地を売り出し大々的に宣伝していた。売れた地も多少あり、建物も2か所に出来た。しかし、別荘としての使用実態があったか疑問のようでもある。
実は御岳神社に向かう手前の林道わきに「売土地」の古い看板があった。用地売却の宣伝である。「緑地測建株式会社」とあり、関西方面らしい電話番号が書いてあった。電話してみたが、使用停止のようだった。KIさんは、用地は若干売れたようだが、別荘が建ち実用される段階前に放棄されたようだと見ている。
とにかく、この目で別荘地の現実態を確認できなかったことが悔やまれる。その原因は地図の読み取りに水漏れがあったためだ。でも、長くて変化のある林道歩き。天を突く針広混交林の美景は大切な記憶として長く残りそうだ。
もう一つ胸に残るのは、三角点名中之坊の名のことである。三角点の「点の記」を見ると、所在地の住所は白川町切井中之坊2562とある。つまり、中之坊という小字が切井にあった、あるいは今もあるのだろうか。WEB情報を調べても現在の白川町には中之坊なる小字はない。
「中之坊」は全国内の寺院や神社の名称に見られる。ここに中之坊という祠があったのだろうか。或いは御岳神社との関係でこの地の地名となった一時期があったのかもしれない。道中、誰一人とも会わなかった静かな山旅でした。完
<注 パール白川>
標高800mの高原に1970年ころ開設され、一時は100軒もの別荘が出来繁盛。その後衰退して5.6年前にはすべて廃屋となり、ゴースト別荘となった。

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