大垣山岳協会

賽の河原(鈴鹿青川峡)~治田峠~遠足尾根周回 2024.12.04

その他

【 個人山行 】
鈴鹿・青川~治田峠~銚子岳( 1019m △なし )
~静ヶ岳( 1088.52m Ⅲ△ )~遠足尾根~大鉢山( 522m △なし )周回
三重県いなべ市北勢町新町滋賀県東近江市杠葉尾町 NT

 地形図に太く水色で描かれた川に水は無く峡谷は全て大量の土砂の下であった。長い林道歩行を覚悟して来たが全て深い土砂の下に埋もれていた。尾根では古い鉱山跡の歴史を物語る風化した石地蔵に手を合わせた。県境稜線は滋賀側から吹き抜ける風が冷たくてたまらずダウンを着込んだ。静ヶ岳を過ぎて二重山稜の窪地に満々と水を溜めた池に遭遇、泳ぐ水鳥を眺め一時寒さを忘れたのであった。

<ルート図>
  • 日程:2024年12月4日(水) 天候 曇り
  • 参加者:SE、HT、NT、MT
  • 行程:青川キャンプ場7:17-西登山口7:24-銚子谷出合7:35-中尾地蔵9:31-治田峠南頭780m10:11-銚子岳11:09-セキオノコバ11:57~12:23-静ヶ岳12:40-セキオノコバ12:56 -治田峠分岐13:35-金山尾根分岐13:51-大鉢山分岐14:38-大鉢山15:18-西登山口15:54-駐車地16:00
  • 地理院地図2.5万図:竜ヶ岳

 計画作成者の女傑のいうことには本日は14㎞の歩行距離、登山時間7時間30分(若者タイム)ただし高齢で有ることを考慮し休憩含め9時間、16:00頃帰着を目標にと激を飛ばされて出発した。

 歩き始めて直ぐに下山口を確認した。土砂を一杯に溜めた支谷の堰堤を過ぎると林道は土砂に消えて本谷を歩く、青川本谷は大量の土砂で川幅は広く大石が多くて歩き辛かった。

 水は全くない、それでも大雨の時は伏流しきれず表面を流れた跡が小さな段丘を作り、それを越えて進む。ふと規模は違うがヒマラヤの氷河のモレーンを越えるキャラバンを思い出した。モレーン越えを一ツ誤るだけで離れ離れ、隊列復帰に半日要したこと等を話した。

 出発して1時間経過しても大量の土砂は尽きない。右岸から落ちる尾根にトンネルが有るはずだがそれも土砂が埋めている。河原からその尾根を回り込むと大量の土砂が支谷の銚子谷を埋め急傾斜で突き上げていた。青川大量土砂の発生源は銚子谷上部の崩壊だった。クライミング三昧の若い日に一度この谷を登っている。50年以上も昔の事でよく覚えていないがそれなりの滝を攀じたはずだが・・・全て土砂に埋もれてしまったのだろうか。

 銚子谷出合の押出から本谷へ下りると渓谷の様相となって流水が現れ二股となった。ルートは左の谷、ところがその谷の入り口が滝壺となって行き詰る。地形図をよく見れば水線の左に破線が、捲き道を捜して引き返すと銚子谷出合の左岸末端に目印が有り道を見つけた。

 古道を辿った台地に「日之岡稲荷」の祠や鳥居が、治田鉱山宿舎跡の名残で有ろうか。付近には人工的な平地が続いていた。此の鉱山は戦国期から江戸、明治期まで銀と銅を産出していたようである。明治以降には五代友厚の次女藍子も経営に携わっていたようだ。

 道は直ぐに崩壊した斜面に消えて獣道を追った為に嫌な所を下りて谷を詰めた。谷の分岐を間違えてはならず地形図が手放せず睨めっこ。傾斜の有る谷中で右手にストック2本、左手で地形図の握り放しは結構な負担だった。

 やっと治田峠へ突き上げる尾根に到達、古い案内板や目印も有って地形図をポケットに仕舞うことが出来た。踏み跡も残っており後は体力のみの単調な労働となった。

 このまま治田峠まで汗を滴らせ登るだけの苦しい尾根歩行と思っていたが標高500m辺りで中尾地蔵の看板を見て疲れが飛んだ。顔の前後も確認出来ないほどに風化した石像に峠の歴史を感じて手を合わせたのだった。山登りは事前勉強をし過ぎるとこういう感動が湧いてこない。国土地理院2万5千の地形図のみで知らない地形に臨むといつも山が新鮮だ。

 尾根の道は長い年月の人の往来と風雨で削られて人の背丈を越える凹みとなっていた。それを落ち葉や倒木、落石が埋めて歩き辛く何度か避けて木の根を踏んで斜面を歩いた。

 やがて治田峠への道は右へ斜上を始めたが上が見通せたので無視して斜面を直登した。乗越しの傾斜は強かったが木を掴んで県境稜線に出た。峠より南に20m高い標高780mのコブであった。稜線は寒く直ぐにダウンを着込んだ。藤原岳は白く煙って霙と思われた。

 銚子岳へ向かう正面に崩壊地が白く見えた。尾根が一つ消えて無くなっているほど大きな崩壊跡であった。青川を埋めた大量土砂の発生源はあれだと直感した。白川郷の帰雲城もああやって消えたのだろうと話題になった。

 県境稜線へ出て銚子ヶ岳分岐迄の300mの登りは辛かった。調べでの50分のタイムで歩けたのだが、傾斜が落ちて見上げると又その先に・・・何度か騙されギブアップ寸前だった。

 分岐で小休後に銚子岳1019mへ。若い日に銚子谷から登っているはずであるが全く記憶に残っていない。当時は山頂に意味を見出せず唯々突っ走っていただけの山登りであった。

 銚子岳分岐迄引き返すと南へ100mの急下降で有った。せっかく稼いだ高度がもったいないとぼやいたがコルが真下に見えるほどの急下降であった。県境は静ヶ岳の北急斜面にあって当初はそれを辿ろうと・・・しかしとっくに気は萎えており登山道を追った。

 静ヶ岳山腹をトラバース、小さな池を右に見てセキオノコバの静ヶ岳分岐へ着いた。「コバ」とは「木場」で伐採した木を集める場所とか仕事場、休む場所のようだ。静ヶ岳山頂往復の前に腹ごしらえをした。休憩中に藤原岳から来たという単独の女性が通り過ぎていったが静ヶ岳へは見向きもしなかった。後にも先にも本日会った只一人の登山者だった。

 セキオノコバより静ヶ岳山頂まで17分で行った「点名・賎ヶ谷」1088.52m、点の記によれば、いなべ市北勢町の財産区で俗称、静ヶ岳と書かれている。

 竜ヶ岳が南東に見えて山頂部に人が見えるという。あの山頂から左稜線が遠足尾根で山頂斜面は笹原で覆われている。と言うと、早速「意義あり」と、笹は退化して「草原になっている」と、3年前に市民登山をしたばかりで笹原だと言い切ったが・・・?

 静ヶ岳から引き返しコブを一登りすると眼下に池が現れた。予備知識が無かったので突然の池の出現に大喜び、SE女史は1万の拡大地図を持参しており気付いていたようだ。帰宅後に2万5千図を虫眼鏡でよく見れば水色で池が確認出来たが裸眼でしかも山中の行動中では無理に決まっていた。

 長時間行動で時間の制約があるのだが嬉しくなって道から離れて池へ近づき撮影会となった。水鳥も3羽泳いでおり寒さを忘れるほどに雰囲気は最高である。しかし人擦れしていない鳥は侵入者に慌てて逃げて行ったがその先にも池が有った。

 尾根道へ復帰して遠足尾根を目指して黙々と歩いていると後方の3人は竜ヶ岳山頂斜面が近くなるにつけ笹原はやはり草原であるとのひそひそ話が聞こえて来るのだった。笹原は青いはずで黄色味を帯びて見えるのは笹が退化し草原が覆ってしまった証だと、

 天気は回復傾向で明るくなり藤原岳が葉を落とした木々の梢越しにはっきり見えるようになっており、治田峠からの県境稜線を振り返った。寒さも幾分和らいでいた。

 竜ヶ岳と治田峠の分岐着、周辺の笹は退化して全て草原化していた。よ―くみると10㎝ほどに退化した笹をまばらに確認出来る。丈を短くして懸命に生命を維持していた。だが竜ヶ岳山頂斜面は間違いなくまだ笹原が残っていると言い切ったが3名とも?であった。

 分岐から小屋らしいものが見えておりそこで休むことにした。遠足尾根は市民登山を含めて2度ほど来ているのだが避難小屋が有ったかは記憶がない。落葉したこの時季だから気付いたのかもしれないがダンダン記憶が怪しくなって、山頂斜面の笹原も自信が・・・

 小屋は作業の為の道具と材料置き場のようであった。小屋付近から木道が造られつつ有って未だ作業途上のようだった。正直僅3年の間の道の様変わりにビックリした。

 登山靴で削られて表土の流出が激しいのだろう。それほど登山者が増えているのだろうか罪の意識を感じてしまう。低く垂れた雲のような心境となった。

 金山尾根分岐である。ここも作業途上のようであった。市民登山で訪れた折りにはこの直登コースは止められており1042mの頭の北斜面をトラバースして登った記憶が甦った。

 遠足尾根と大鉢山分岐到着、市民登山で訪れた時の記憶と何となく雰囲気が違っていた。看板が有って、大鉢山へ続く尾根への進入を拒むように「大鉢山へは登山道が未整備」と書かれていた。木々を潜るようにして分岐から進入すると枝が切り払われており開けて近距離で目印が続き導いた。急傾斜地が有りスリップに注意して下ったが奥美濃の道のないヤブ山がホームの身には有難い立派な登山道に感じた。

 遠足尾根分岐から予定時間の40分で大鉢山522mに着いた。カルスト地形の山頂は木にテープが巻かれたのみで山名板は無くがっかりして揃っての山頂写真を撮り損ねた。

 高みから東の少し低い平地に真っ赤な実をたわわに着けたマユミが招いた。写真を撮りに向かうと木の傍に「大鉢山山頂」と書かれた古い山名板が立っていた。そこからは北と東の展望が開けて見えた。彼等を呼んで写真をと思ったが疲れていると思い止めた。山頂にマユミの木は5本ほど有って普通の実は桃色だが此処の実は赤が非常に濃くて綺麗だった。

 大鉢山からの下降は激下りの連続でスリップに注意が必用で太ももに力が入った。70歳を過ぎて山に復帰した同期入会のMさんは帰って来た頃はよく転んで笑いを誘ったのだが、この頃はちっとも転ばない。今では登りで反対に後ろから煽られる。山登りは意志と継続と教えられる。西登山口に降り立つと直ぐにSE女史は時計を見た。

 今朝方ここを出たのが7時24分、SE女史が「登山口着15時54分です」のコール。予定通りと満足気に時計を見て言った。休憩時間を含めて8時間30分、高齢者集団にしてはまあまあよくやった。出発時には2G(ツージジイ)揃って絞られると覚悟して挑んだが終わってみれば記憶に残るいい山であった。また誘っていただきたい。完

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