月報「わっぱ」 2025年1月(No.518)
【 一般山行(忘年懇親会翌日の懇親山行) 】 賤ヶ岳( 421.1m Ⅲ△ )、他 AM
- 日程:2024年12月1日(日)(曇り後晴れ)
- 参加者:CL.AM、SL.MK、IK、OS、GY、SM、TS、NY、NT、FT、FM、MY、YH、YC
- 行程:ウッディパル余呉9:15=余呉湖観光館駐車場9:30~9:45-岩崎山10;10-大岩山10:35-賤ヶ岳11:45~12:30-公法寺山13:20-太平良山14:05-地蔵峠14:40-駐車地16:00~16:20=中之江駐車場18:00(解散)
- 地理院地図 2.5万図:木之本(岐阜15-2)[北緯35°30′、東経136°12′]
夜中に目を覚ますと雨音を聞く。今日の天気が気にかかる。昨夜宿泊した内6人は、朝食を摂ることなく京都の山へ出かけて行った。朝食は8時30分、昨夜と同じレストラン。すでに整然と料理が並べてあった。好きな場所に座り食事を摂るも天気が心配である。
今日の集合場所は余呉湖観光館駐車場で、時間は9時30分。参加者は昨晩宿泊の12名と当日参加の藤井夫妻。駐車場に着くとF夫妻も到着し安心する。広い駐車場は車でいっぱい。ワカサギ釣りの車か? それにしては少しシーズンには早すぎると思いながらよく見ると、ほとんどの人がザックを背負っている。賤ヶ岳の人気の高さにびっくりする。
天候は回復し今日一日雨の降る心配はなさそう、安心する。賤ヶ岳は信長の跡目相続を羽柴秀吉と柴田勝家が争った天下分け目の合戦があった古戦場で、歴史の香りが残る場所。今回は賤ヶ岳だけでなく余呉湖を周回するルートである。
一番北にある岩崎山登山口からスタートする。急な階段を登って行くと林の中にもう一つの登山道と合流する。登山道には人があふれ、流れが作られている。しばらく流れについていくと山頂らしき場所に着く。林の中に岩崎山の表示。ここが岩崎山かと知り拍子抜け。戻るように回ると賤ヶ岳登山道に出た。
しばらく進むと大岩山の分岐に出る。「中 川清秀の墓」の案内に従って左折すると、山頂に立派な墓がある。清秀は秀吉側の武将で、勝家側との戦いに敗れ戦死。秀吉は大垣から駆けつけ反撃し勝家軍を撃破。その後この地に丁寧に葬ったのである。
登山道に戻りさらに進むと次は「猿ヶ番場」の表示、ここは秀吉が指揮をとった場所としてよく知られている所。いかにも古戦場らしい歴史的史跡が続く。両サイドは疎林が続く。所々にモミジの紅葉が残り、色鮮やかで楽しませてくれる。

これまでは緩やかな登りだっが、ここら辺りから急な登りに変わって来た。蛇行を繰り返しながら高度を上げていく。最後の急坂を登りきるとほどなく賤ヶ岳の山頂に着くことが出来た。登り口から2時間を要した。山頂は広く登山客の多さに驚く。リフトを利用して登ってくる人も多い。

山頂からは北に余呉湖、南に琵琶湖、竹生島も望むことが出来る。頂上には七本槍の銅像、武将像等々が点在しいかにも古戦場らしい。我々は三角点のある余呉湖が見渡せる場所に陣取る。早速横断幕を広げて全員の集合写真。その後食事時間に入る。
今日は賤ヶ岳だけでなく余呉湖周囲の山々をめぐる登山である。食事の後リフト乗り場近くの降り口から塩津分岐の飯浦越までぐんぐん下る。こちらに来る登山者は誰もいない。飯浦越から緩やかに登ると公法寺山(380m)の表示。続いて賤ヶ岳より標高が高い太平良山(458m)を目指す。緩やかなアップダウンを繰り返し最後は急登、四等三角点のある頂上に達することが出来た。こちらのルートは山名の表示が全て手書き。ひっそりとしていて、森の中を楽しむ人向けのようだ。

ここら辺りの山頂は砦になっていて、各所に堀切や切通の跡が残っている。同じような森の中をどんどん進むと祠のある権現峠に出る。ここで一息入れる。看板にはこの地点の標高は383mで東余呉、西塩津の表示。我々はここから余呉湖に下る。
踏み跡の薄い道を赤布を追いながら、緩やかな下りをどんどん進む。やっと余呉湖のほとりに出ることができたが、ここから駐車場までが遠かった。皆バラバラになって、余力のある人は順調に自分のペースで進む。遅い人は最後は田んぼ道を近回りして、どうにかたどり着いた。
それでも余呉湖周回登山を成し遂げた満足感があった。皆さんお疲れさまでした。ありがとうございました。

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