【 個人山行 】 高室山 ( 818m 三角点なし ) 滋賀県犬上群多賀町佐目 NT
酷暑も一息ついてボチボチ山に行こまいかと国土地理院地形図で近場の山を捜すとR306号鞍掛峠から犬神川沿いに下った滋賀県佐目に高室山の山名を見つけた。標高818mジジ2人と美女の山行には手頃で孫の下校時間までに帰宅できそうでいい練習場になりそうだ。
- 日程:2024年9月24日(火) 曇り後一時雨
- 参加者:L.NT、OS、MT
- 行程:駐車地8:43-腰越砦跡9:07-林道出合9:56-高室山頂10:38~11:35-鉄塔巡視路分岐12:19-鉄塔12:31-つかって舎13:17-駐車地14:18
- 地理院地図2.5万図:高宮
佐目集落の空き地で駐車許可をお願いしたら登山者駐車場が整備されていると教えられ
た。R306号を引き返すと立派なトイレ付駐車場が…ろくすっぽ調べもせず地形図を見て決
めた勉強不足を露呈したが整備の行き届いた登山道に案内され早く帰れそうで安堵。
登山口には立派な標識が整備され道も良く踏まれている。地形図に破線が記載されているので道はあると思っていたがこれほど行き届いた山と思っていなかった。嬉しい誤算だ。
登山道が砦跡の上を通っていた。人工的な平地が確保されており櫓跡と想像できた。説明書きには城郭研究家の縄張り図が描かれていた。地形図とコンパスで次の進行方向を確認してルートを先読みする両人、標識が有っても必ず自身で確認をする癖をつける。
霊仙山、鍋尻山から南へ続くカルスト地形の山々、高室山も大岩の石灰岩が多く尾根を覆っていた。そして尾根には石組みの炭焼窯跡も残されていた。
標高600mを過ぎると傾斜が落ちて杉の植林帯を谷に沿って進む、尾根では乾燥していたが谷は湿気っておりヒルが気になった。林道へ出たので休むつもりでいたがいかにもヒルが出そう。陽射しを求めて歩くと地形図に記載のない分岐が出て来た、おそらく古い作業道だろうと判断して直進した。
林道脇にエゴマが群生し日当たりの良いカーブでヒルを気にせず腰を下ろし休憩をした。そこから林道を外れると檜の植林帯となって山頂へ導いた。
ヒノキの植林帯を終えると斜面はケヤキなどの自然林となった。古い記録を読むと嘗てはクマザサで斜面は覆われていたようだが面影はない。カルストの岩が多かったので春はフクジュソウの花が楽しめるかもしれない。
樹林を抜けると斜面はシカが食しないマツカゼソウやシダ類の草地となって山頂まで続いた。赤土と石灰岩特有の尖った岩の多い頂は獣の臭いがしてシカの糞が落ちていた。南東に見える御池岳は山頂部を雲が覆い、山名柱の左には双耳峰の三国岳が見えていた。
北には今春にTさんのリーダーでフクジュソウを求めて登った鍋尻山が有って奥に霊仙山の山塊が、鍋尻山の左奥の尾根が凹んだ先に米原市の街が見えていた。
西に目を転じると彦根市から近江八幡市、野洲市への湖東の市街地と青い湖面が低い雲の下に眺められた。彦根市街地の中に黒く見える山は荒神山284mであろう。
山頂から下りて林道出合まで引き返す、そこから北へ登路の林道と分かれエチガ谷源流沿いの林道を歩きひたすら南後谷を目指した。周辺の山で伐採作業が行われているらしく地形図に記載のない新しい分岐が幾つか有った。
エチガ谷(河内の風穴)へ行く林道と岐かれて杉の植林帯の中につけられた鉄塔巡視路を南西方向へ進んだ。湿気を多く踏んだ谷底の平地の杉植林帯はヒルの巣窟のようで足元を気にしつつ早足で通り過ぎた。
杉の植林帯から50mほど南西に高度を稼ぐと鉄塔に出た。次の鉄塔までの送電線下はシダなどの草が伸びきっておりそれを嫌って右の杉林の中を歩いた。帰宅後に読んだ資料によればこの付近は「陣屋」と呼ばれ近くに祠が有り地蔵が安置されているようだ。草藪漕ぎから逃れることに懸命で見落としてしまった。残念、事前勉強を怠ったつけを払わされた。
次の鉄塔を目指し林から抜け出ると道に出合った。やはり道は送電線の真下の草藪から延びて来ていた。此処から西へ急下降が始まるのだが山側の反対方向に「高室山⇒」の標識が有り道が上へ延びていた。地形図で確認したが記載がなく近道コースが近年出来たのか。
陣屋の台地から高度で約300m、急傾斜地につけられた九十九折の道を下った。行けど行けども谷底が近づかない。ほとほと嫌になった頃に谷底が見えたが、今度は大雨で道が寸断されて埋まっており登山道の態を成していなかった。
谷へ下りる手前くらいから雨粒が落ちていた。樹林の中で濡れは最少で済んだが雨具を羽織る適地を捜していた。堰堤を越えると舗装された道となりその先に東屋を見つけた。雨宿りをと中に入ると炉付きの立派な東屋「つかって舎」の看板が掛かっていた。
山村原風景をのんびり眺め散策気分で駐車地を目指したが南後谷、佐目地区とも空き地や草に埋もれた空き家を多く見た。地区の外れに明智光秀屋敷跡の看板を見て立ち寄った。江戸前期に書かれた『淡海温故録』(おうみおんころく)には光秀の2、3代前、明知十佐衛門が土岐氏に背いて美濃を離れ佐目に住んだ。光秀はこの地で生まれたが器量優れて朝倉に出仕する為村を出た、その後、信長に仕官して大出世したと書かれているそうだ。
十兵衛屋敷跡の背後に十二相神社があり幹回り6,5m樹齢500~1000年の大杉が目を引く、
神社の境内を右に見て坂道を登りきると今朝方意気揚々と辿った登山口に出た。そして杉林を抜けて駐車地へ着いた。時計を見ると未だ14時半前、下校には十分間に合う。完
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