【 個人山行 】
点名・茶碗 ( 588m Ⅳ△ )、点名・乱橋 ( 625m Ⅳ△ )、点名・小谷 ( 700m Ⅲ△ )
SM
峠から峠までの長い尾根筋と中腹道。めったに歩く人のない樹林内の踏み跡。麗しい緑葉をあおぎ、落葉茶色の地肌を踏みしめる楽しさ。白川町と八百津町の山筋をたっぷり25、帰路では車の通らぬ舗装路をてくてく。緑の草原に包まれた小さな集落の姿に懐かしさを感じた。
- 日程:2024年9月24日(火)
- 参加者:SM(単独)
- 行程:24日5:40自宅(愛知県春日井市)発⇒国道41号⇒白川口・白川トンネル⇒赤川筋・県道68号⇒三川で県道63号⇒名越峠で駐車(岐阜県白川町三川)
◆名越峠発7:50→茶碗林道→8:30点名茶碗(△Ⅳ588m)→9:40茶碗林道終点・八百津・白川町境尾根→11:35点名乱橋(みだれはし△Ⅳ625m 写真=①)→11:55前坂峠手前コル→林道→福地への町道→P1:10点名小谷取り付き→2:00点名小谷(△Ⅲ700m)→2:40押上地区→3:20清津地区→3:45養鶏場(原種鶏場)→4:20県道83号出合→4:30駐車地 - 地理院地図 2.5万図:河岐
2週ほど前に八百津町久田見高原の山々を歩いた時に、その北東にある二つの峠の存在を知った。久田見行と同様に美麗な光景を期待して、白川町の三川地区から県道83号に入った。細い舗装路をうねうねと曲がりながら、標高差約300mの急登の末、名越峠に着いた。峠の名の看板はなかったが、東に向けて林道が分岐していて、入口に「林道茶碗線」の看板があった。(写真=②)この先に4等三角点点名「茶碗」があることを示している。
林道は幅の広い未舗装路。両側の森は全面ヒノキ人工林。林業作業車が出入りしている跡が分かる。すぐに北側に分かれる細い作業道に入る。道の終点の先の丘の上に「茶碗」の点石があった。(写真=③)写真を撮り、すぐ茶碗林道に戻る。考えると「茶碗」が林道名にも三角点名にも使われるのは不思議だ。茶碗でも落ちてないかと、見つめながらヒノキ林で薄暗い道を進む。
道は標高600m前後の中腹をほぼ水平に進む。日差しは届かず23℃ほどの快適な気温で汗もあまり出ない。やがてひと時、北側の視界が開けた。
なだらかな山稜は黒川の北側に位置する笹平高原の峰々だと推測した。その奥にそびえるはずの御嶽山は白い雲海の向こうに隠れていた。(写真=④)視界はすぐに閉ざされると同時に人工林が薄くなったせいか、日差しが増えた。林道周辺に小木類増えたせいか、クモの巣のネット攻撃に苦戦。ストックで振り払うのだが、時に顔や手にねばねばの巣材が張り付き往生した。
やがて茶碗林道は終点となり、樹林内の斜面をよじ登り八百津・白川町境尾根上にでた。しっかりした踏み跡が続き、赤色の八百津町、黄色の白川町の境界杭が所々にあり、歩く目安となる。(写真=⑤)何より嬉しいのは樹木の織りなす色模様。ヒノキの人工林ではあるが、生育条件が悪いのか、ヒョロヒョロ木ばかり。ために樹冠が開けて陽光が下部に落ちるためか、広葉樹や照葉樹が生育するなどと想像する。アカマツの赤い木肌も視界を引き立てている。(写真=⑥)多彩な葉枝の緑、地面に堆積する枯葉の茶色。眺めに引き付けられて、歩が緩み、頭も惑う。距離感を失い、けっこうな時間損失も生じた。
点名乱橋は踏み跡から外れた小山の上にあった。(写真=⑦)ここから、さらに町境尾根を下る。幅の広い踏み跡をしばらく下ると、イノシシ捕獲カゴが現れ、広い林道に出た。(写真=⑧)ここは前坂峠から200mほど手前の広場。廃林道を通り峠まで行く予定だったが、時間的に苦しいので割愛することにした。
次の目標は三角点名小谷。4等ばかりでは寂しいので3等にも登りたい。町道押上線を南下して、間もなく3戸ほどの家屋がある三叉路を左折し川沿いの舗装町道を進む。中部電力の送電線愛岐幹線の電線の下付近で小川を横切り山肌に取り付く。山林作業道らしいやぶ道を上がる。
全面ヒノキ人工林の中、アセビやシロモジ、ヒサカキなどの低層薮をかき分け登る。高度700mの山頂部を探すが、点名小谷は見つからない。行ったり来たりした後、白い地理院標柱の横に点石を見つけた。(写真=⑨)土砂堆積の陰になり、見つけにくい位置だった。
念願がかない、気が緩んだせいか、下山では往路を戻れず、縦横に交差する作業道をさ迷い、東側の押上集落に直接出てしまった。そこから、立派に舗装された町道を伝い白川町内に入り県道83号に戻り、駐車地に戻った。
この間、長曽川源流部の小川(清津川?)筋に追分、清津に現存集落がある。ともに4、5戸しかない。歩行中、通過した車はゼロ。道沿いに低い草原が緑の絨毯のように広がる。耕作放棄されたかつての田畑だろう。(写真=⑩)
山間奥地の集落無住化現象は全国各地で起きている。点名乱橋先の町境尾根を降りて、町道押上線を下る途中、山林仕事をしていたIS氏(68歳)出合った。この一帯に山林を所有していて、出材作業をしていた。彼は山間奥地の集落について、古老は居残っても、若者はどんどん減る傾向は避けられないと言う。氏は大字福地の中心部に住んでいるが、3人の息子さんは近郊の市街部に住んでいる。職場が少ないことや子供の通学条件の悪さも影響している。長く福地地区にあった小学校は2010年に、中学校は1991年に久田見の小中校と統合、廃校となってしまった。
最後に妙に気になるのは「茶碗」の語である。古い地図には町道と県道83号との三叉路の東平坦部に「茶碗」の文字。つまり茶碗なる集落があったと「可児からの山歩き」氏のブログに記されている。私も帰路にその屋敷跡を探した。名越峠のすぐ手前の県道から東側下部の竹藪の中に完全に倒壊した家屋の残骸を確認できた。そこが茶碗集落跡のようだ。(写真=⑪)だが、そこに降りて、探索しなかった。残念な判断だった。前出のISさんによると、小学校時代に、この茶碗集落に住む同級生が居たことを覚えている。50余年まえには茶碗集落が存在していたのだ。最後まで疑問なのはなぜ「茶碗」なのか。茶碗を生産していたのか。改めて、IS氏にお聞きした。位置はやはり廃屋のある竹藪一帯だったようだが、現地に行っていないので確認はできないという。「茶碗」の命名理由も聞いていない、という。私は図書館で白川町史や古い地図を閲覧したが、「茶碗」の記載はどこにも見つけられなかった。完
発信:9/28
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