大垣山岳協会

関ケ原の里山で地形図レッスン 2024.09.11

相川山

【 個人山行 】
関ケ原明神の森~相川山( 790m △なし )~川戸~播隆平 関ケ原町玉字合川周辺
NT

 この夏に単独で新穂高左俣から双六岳、西鎌尾根を辿り槍ヶ岳に登頂し右俣へ周回した新会員が我が家近くにいる。北アの景色に魅了されステップアップを目指して近くの里山自主トレから帰る姿を幾度か見た。「鉄は熱いうちに打て」の格言がある。彼女の休日を利用して地形図講習を行った。鉄塔や送電線、林道と尾根の交錯や並走、見通しの効かない樹林帯等関ケ原の里山は地形図学習の適地である。(TOP写真は秀麗な相川山790m)

<ルート図>
  • 日程:2024年9月11日(水) 曇り後晴れ
  • 参加者:NT、WY
  • 行程:明神の森8:20-小沢峠9:47-相川山10:18-川戸11:30-播隆平11:42~12:15-相川山13:22-小沢峠13:44-明神の森15:07
  • 地理院地図2.5万図:関ヶ原

 先ず明神の森管理棟前の広場で地形図の基礎学習をした。北と磁北、尾根と沢、2,5万図と等高線、地形図は情報が満載、地形図を読むことはルートを先読みすること。目指す相川山と川戸の位置をコンパスで確認して先ずは明神山を目指しスタートした。

 水源に乏しい関ケ原は旧幕時代から旱魃が続くと雨乞が度々行われた。それは戦後の高度成長期まで続いた。一定期間八幡神社で宮籠りして雨が降らぬと若宮神社で願掛けをして松明をかざし大幟をたてて明神山登山をした。神社前の広場で太鼓や笛の伴奏で願掛け踊りを奉納した。町史の学習も登山と合わせると幅が広がり憧憬が深くなる。

 明神山頂658,7mⅢ等△。往時、神社前の広場で願掛け踊りを奉納すると尾根伝いに相川山へ周回し山頂下の雨乞岩霊厳神社で再び踊りを奉納し小関集落へ下りた。町史に記載された雨乞いの尾根を今日は歩くのである。此処でコンパスを小沢峠の進行方向に合わせた。

 今年の夏は暑かった、9月になっても残暑が厳しく樹林に覆われた尾根を歩く予定であったが太陽は雲の中で涼しく林道を歩いた。眼下に関ケ原小関の池寺が見え、その南に関ケ原合戦の折りに宇喜多秀家が陣を置いた天満山が見えていた。

 道中で見つけたソフトボール大の球形の白いキノコ。トラフグやコクテンフグに似たキノコだった。オオシロカラカサダケと思われるが自信はない。

 標高730mの台地東に立つ鉄塔から伊吹山の東面と北尾根を見る。変化の少ない林道では地形図の現在地確認に林道分岐や谷、橋以外に送電線と鉄塔も重要な情報を提供してくれることを知る。

 小沢峠は風が抜けて心地よい峠で有った。その昔の春日村古屋と関ケ原町小関を繋ぐ峠道が今でも地形図に破線で記載されている。だが現在は古屋側の道は廃道状態のようだ。地形図に破線で記載されていても廃道となって使えないことが有ることを知る。関ケ原合戦で敗れた小西行長は落武者となってこの谷道から逃れたが春日村で捕縛された。

 小沢峠から南へ向かい急斜面につけられた中電巡視路のプラ階段を登る。これを登り切ると古戦場の笹尾山、石田三成陣跡から来る尾根と出合う。

 尾根合流点着、踏み換え点と高みから5mほど下った所に帰りの為の目印を残した。これより南へ下ると鉄塔が有り右へトラバースすれば雨乞岩だ。尾根を更に下れば石田三成の陣跡笹尾山で家康に敗れた三成はこの尾根から近江木之本の領地へ逃げ落ちた。これから尾根は西に向きを変え伊吹山東南尾根へ向かう。これより先に道はなく樹林が覆い川戸山頂は見えない、コンパスと地形図のみが頼りだ、進行方向を合わせ直し獣道を追った。

 Ⅳ等△点名・藤川村781,7m。此処の住所は関ケ原町玉西滝ヶ洞で県境から200mも岐阜県側に入っている。なぜ滋賀県の「藤川村」の名になっているのか理解できない。

 相川山は下から仰ぐ秀麗な山の割に山名板もなく赤テープが巻かれただけの山頂らしくない頂である。関ケ原町史によれば明神山からこの頂まで続く山域を相川山地と言っていたようだ。この山域の南斜面に源を発した流れは相川となり揖斐川へ注ぐ、その最高所を相川山と呼ぶのは自然であろう。県境は南の尾根から直角に北西へ折れて伊吹山へ続く。

 尾根は4度ほど登り下りしながら北西へ向かった。高みからの下りでは必ずコンパスの進行方向と尾根との向きが合っているかを確認する。斜面を登り切るとフイに林道へ出た。こういう所では必ず地形図で現在地を確認する。林道二つ目のヘアピンカーブが終える所で有った。先ず赤布を林道出口の木に括り帰りの目印で残した。そして林道道幅が3mほどあるのに地形図には破線で書かれている、山道ではこういうことが時々あることを知る。

 林道が尾根から離れ出したので再び川戸山頂へ続く斜面に取り付くと獣道が上へ導いた。山頂下のシダの葉はこの夏の暑さで茶色く枯れて晩秋のようだった。振り返ると相川山、その先に南宮山と笙ヶ岳の山塊が、その東に濃尾平野が見えていた。

 川戸905,5m「点名・藤川Ⅲ等△」近くの木に「川戸山」の山名板が括られていた。川戸を「相川山」と表記した書を見たがこれは間違いだ。川戸から南と西に源を発するのは藤古川で牧田川へ注ぐ、東と北に源を発するのは長谷川で粕川となる。相川へ注ぐ水源はない。

 川戸から高度で40m、距離で300mほど西の伊吹山方向へ下った所に播隆上人屋敷跡の石碑がある。播隆は槍ヶ岳を開山した修行僧で日本人初のアルピニストである。浄財を募り槍の穂先に登山者向け鉄鎖を設置している。伊吹山で修行される傍ら南宮山や伊木山にも足を延ばしていたようだ。

 揖斐川町三輪一心寺の開祖は播隆上人である。全国を行脚し往時の装備で槍ヶ岳に5回も登頂した播隆だが後年に美濃揖斐村の阿弥陀堂(一心寺)へ帰る途上の中山道太田宿で55歳の生涯を終えた。一心寺には播隆念仏講が残され墓も現存するようだ。

 帰りの楽しみは途中で見つけていたキノコの採取である。白いキノコを割いてみたが黒いシミがなく「ツキヨダケ」の疑いは晴れた。おそらく「ムキタケ」か「ウスヒラタケ」であろう。表面の皮が旨くむけず「ムキタケ」ではないなと思った。背後の黄色いのは傘表面がトゲに覆われ毒っぽいが「ヌメリスギタケ」とみたが全くヌメリがないので怪しい。毒キノコの場合はヤバイと思い採取したキノコは袋を分けた。

 白いキノコはウスヒラタケと判明した。下写真はWY家の食卓である。我が家はバター炒めに塩コショウで頂いたが美味しかった。さて黄色いキノコだが水に浸したがヌメリが戻らずスギタケモドキと判断し捨てた。体質によって中毒に、怪しいものには手を出さない。

 今回のレッスンは地形図と目印付けの他に町史やキノコの見分けと学習が盛りだくさん過ぎ、欲張り過ぎの内容となってしまった。しかし、山登りは奥が深く北アや鈴鹿は景色を眺める所で学習には向いていない。彼女も幾度か学習すればきっと理解できるだろう。完

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