月報「わっぱ」 2024年8月(No.513)
追悼 川合延雄君、ありがとう
IS
1964年4月、常葉神社社務所。入会して初めての例会に参加して初顔合わせ。数ヶ月は会の山行に参加。彼は知識も内容も豊富で、一緒に行く機会が増えた。行先は御在所、岩登り。多様なゲレンデに魅せられた。会の計画の中では基礎を学ぶ機会に参加して技術を身につけていった。
1965年3月20~21日、富士山で岐阜県山岳連盟主催の初級冬山講習会が実施され共に参加した。そこで遭難が発生し1名がみまかられた。帰路、彼がボソっと「弔い合戦やろか」と言った。翌年同月同日、2人は富士山頂にいた。天気は快晴、気温は最低-27.1℃、最高-13.1℃。御殿場、須走、両登山道間の大沢は巨大なアイスバーンが広がり、斜面上に立った時は体が凍りついた。富士山は恐ろしい山だった。
その後も2人での活動は裾も広がっていった。1967年、故TY理事長(当時)が中心で海外遠征の企画が進められていた。故IK井上孝二会長(当時)に相談。1968年は大垣市制50周年に当たる。記念事業に加えてもらうべく大垣市や体育連盟へご尽力をしていただき、特別事業として加えられた。名称は「大垣ヒンズークシュ・ヒマラヤ遠征隊」、目的地はアフガニスタン中部ヒンズークシュ山脈の未踏峰ピークX(6026m)と決められた。2人も手を挙げて、メンバーに加えていただいた。
1968年6月10日、日本出発。同月20日、アフガニスタン・カブール出発。7日間のキャラバンで活動基地となるアンジュマン村に到着。翌日から偵察活動、BC建設に注力。7月6日BC建設、10日第二AC建設。この間、荷上げ、高度順化、初登に向けたルート工作、偵察と進み、具体的な攻撃ルートが決められた。
7月15日のミーティングの場で、17日にアタック、登攀者は彼と私の2人が告げられた。
ルート工作がされているとはいえ、高所での活動は息がはずむ。息切れする体にムチを打って足を上げていく。頂上は雪をつけない巨大な岩塊であった。未踏のピークXは遂に大垣山岳協会の手に帰したのである。ピークXはシャー・イ・アンジュマン(アンジュマンの王)と命名された。TOPの写真はピークXの頂上に立つ川合延雄君の雄姿である。
その後、私は会社の辞令により大垣を離れることになった。残った彼の元には若い仲間が集まり、山に対する姿勢、厳しさ、楽しさなど基本的なことを彼は皆に伝えてくれたのである。現在、理事長を始め会の中心になって活動しているメンバーの根底には、彼の教えが脈打っているのである。これが彼の残してくれた最大の遺産であることに感謝したい。個人的には60年のつながりに「ありがとう」と伝えたい。
川合君、安らかにお眠り下さい。合掌
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